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連載・特集

戦後75年の夏 回天 遺品初のデジタル化 <上> 最期の手紙

極限下 家族への思い

検閲・管理乗り越え届く

 旧日本軍の人間魚雷「回天」の悲劇を伝える周南市大津島の回天記念館は7月、搭乗員の遺書などをデジタル画像で閲覧できる展示装置を導入した。当時を知る遺族や住民が減る中、戦争の記憶を次代に伝えるため初めてデジタル化された約1300点の全資料。戦後75年の終戦の日を前に、資料から浮かぶ若者を死に追いやった戦争の狂気や記憶継承の課題を考える。

 「父上は言ふに及ばず母上、ユキさんのことは宜敷(よろし)く御願ひ致します」。1945年6月に出撃しマリアナ沖に散った回天搭乗員の池淵信夫中尉(当時24歳)は、郷里の兵庫県の幼なじみの女性と結婚したばかりだった。44年9月に開設された大津島基地に着任後、縁談が持ち上がったことが分かる手紙。デジタル化に伴い初めて全文を公開した。

新婚生活は10日

 池淵中尉が44年10月に父親に宛てたその手紙では「国難を救うためには、青年の情熱による肉弾的活動以外、方法はないと思うのです」と特攻の覚悟を表明。一方で「後に残されたユキさんは、社会的に法律的に未亡人という名義を付けられると思へば堪(たえ)難きことです」と妻の行く末を案ずる。

 回天で戦死した搭乗員は106人。多くは20代前半の若者で結婚していたのは2人だけだった。その1人の池淵中尉も妻と過ごした新婚生活は正月などわずか10日程度だったという。

 新設された展示装置は、手紙を書かれた時期ごとに分類し、タッチパネルを指で拡大して読むことができる。同館の三崎英和研究員(64)は「たわいもない学生時代の出来事を書いていた人が次第に戦死を意識するようになる心の変化が手紙から読み取れる」と話す。

 搭乗員の多くが回天を積んだ母艦の潜水艦の中で「最期の手紙」を書いたと推測される。潜水艦は半数が撃沈され、手紙も海の底に消えた。たとえ潜水艦が無事帰還し、遺族に届いたとしても子や夫の形見である手紙を資料館に託してくれるケースは少ない。実際、回天記念館が所蔵する遺書のうち艦内で書かれたものは2004年に寄贈された都所静世中尉(当時20歳)のものだけだ。

死の恐怖大きく

 母親がいない都所中尉は45年1月6日、頼りにしていた義姉に宛てて手紙を書いた。軍の記録からは回天が潜水艦から出撃したのは6日後の12日だったことが分かっている。特攻前にしたためられた手紙は艦内の誰かが預かり都所家へ届けられたとみられる。手紙では「姉上様はこの短い私の生涯に母の如く、また真の姉の如く、大きな光明を与えて下さいました」と感謝とともに別れを告げる。

 著書で回天の搭乗員を取り上げたノンフィクション作家の上原光晴さん(87)=横浜市=は「航空機の特攻と違い、回天はまず母艦の潜水艦で敵を見つけるまで狭い艦内に1週間前後待機する。遺書は死の恐怖が大きくなっていく中で書かれたはずだ」と搭乗員たちの心情を推し量る。

 終戦後の残務整理で軍関係者が特攻兵器の詳細を明るみにしないため搭乗員の遺書や遺品は厳しく管理した。そうした中、回天で戦死した安部英雄二等飛行兵曹の両親はかつての同僚に遺書を手に入れてほしいと依頼。その同僚がトランクに入れてひそかに大津島基地から持ち出したことを遺族に伝える手紙もデジタル資料で初めて公開されている。

 三崎研究員は「軍の検閲など数々の困難を乗り越え記念館にたどりついた資料は多いはずだ。戦争を知る人が次々と亡くなる中、手紙は搭乗員の思いを知る貴重な手掛かりになる」と受け止める。(川上裕)

(2020年8月9日朝刊掲載)

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