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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第4部 呉空襲と今 <1> 街の老舗で

壁の水を口移し 娘救う

母の体験 自然と会話に

 呉市の中心市街地、中通のビル2階にあるハフリ美容室。家族で経営する1階の理容室と合わせた創業は、戦後間もない1948年という。今も現役で店に立つ祝(はふり)弘子さん(75)は、自身の記憶にはないが45年7月の呉空襲の「体験者」だ。

 「あの日のことは、母から何度も何度も聞かされてきた。心に刷り込まれています」。なじみ客との会話などで、ふと空襲の逸話が口をつく。

近くの防空壕に

 当時、生後10カ月。海軍人で外洋に出ている父の帰りを待つ母ハルミさんと、同市宮原で間借りした家に暮らしていた。7月1日深夜、米軍のB29爆撃機が大編隊で呉上空に入り、市街地を焼夷(しょうい)弾で襲う。28歳だったハルミさんは弘子さんを抱きかかえ、近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだ。

 ハルミさんから繰り返し体験を聞かされた弘子さん。映像が自分のことのように思い浮かぶという。暗闇の壕は、避難民で瞬く間にすし詰めになった。やがて煙が満ちてきた。ハルミさんが苦しさのあまり、ぬれた土壁に口を押し付けると、不思議と息ができた。すすった水を、口移しで何度も弘子さんに飲ませた。そのうちに気を失い、目覚めたら壕の外に一人で倒れていた。叫び回って、やっと弘子さんを見つけた。生きていた―。

 翌2日未明にかけ市街地を広範に焼き払い、死者約2千人に及んだとされる呉空襲。弘子さんは「母の機転で生き延びたけれど、わずかの差で、なかったかもしれない命」と受け止める。同じく美容師として生きたハルミさんは2014年、97歳で死去。空襲体験、そして命の大切さについて娘へ伝え、引き継いだ。それこそ壕の中での口移しのように。

記憶は次世代へ

 弘子さんが嫁いだ祝家も、親族の多くが古くから理美容業で身を立て、呉空襲で店を失うなどした。ハフリ理・美容室は、弘子さんの義父が戦後再開した店に始まる。今、美容室で主力を担うのは弘子さんの三男真嗣(しんじ)さん(46)だ。

 弘子さんが母から受け継いだ体験談は、世代を超え、真嗣さんたちの耳にも自然と入ってくる。「想像もつかない体験に、想像を膨らませてみるんです。僕なりに」と真嗣さん。焼け跡からよみがえり、再び歳月を刻んだ商店街の老舗で、ひそやかに記憶の受け渡しが続く。(道面雅量)

    ◇

 かつて「東洋一の軍港」とたたえられた呉市。太平洋戦争末期、港や工廠(こうしょう)、市街地に相次いだ空襲の記憶や記録は、一部が軍事機密のベールに覆われながらも関係者の努力で受け継がれてきた。市街地が標的になった呉空襲を中心に、今に記憶をつなぐ営みを追う。

(2020年8月15日朝刊掲載)

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