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[備後の戦後75年] 因島空襲 少ない資料 難しい継承 

 尾道市因島中庄町の星野正雄さん(93)はことし、7月28日を自宅でひっそりと迎えた。75年前に因島空襲があった日。島内の軍需工場で働いていた多くの同僚の命が奪われた。証言活動をしてきたが体力が衰え、人前で最後に話したのは4年前になる。「元工場の方を向き、亡くなった人たちを思い浮かべて、手を合わせるくらいですよ」と静かに語る。

 1945年7月28日午前11時45分、当時の日立造船因島工場(因島土生町)と三庄工場(因島三庄町)に敵機が襲来した。

 星野さんは当時入社5年目で18歳。因島工場で工作機械部品の検査などを担当した。防空壕(ごう)に逃げ込んだ直後、近くで爆弾がさく裂。外に出ると目の前にあった木造建物は跡形もなく、地面に掘られた簡易防空壕はつぶれていた。「全滅かもしれないと思ったが、助けたいと必死だった」。仲間と素手で掘り返したが、壕に逃げていた数十人はほぼ息絶えていた。

 これまで自宅を訪ねて来た人に対してや、集会で体験を話してきた。戦後70年に島の高校生に伝えた時を「戦争は絶対いけないという思いをよく理解してくれた。感想文を読んで胸が熱くなった」と振り返る。

 ただ、熱心だった教員が異動するなどし、島内の小中高では因島空襲を題材とした平和学習は下火に。星野さんは「世の中の関心も薄れたように感じる」と残念がる。

 市民たちが開いていた追悼の集いも途絶えた。2007年7月28日に因島空襲犠牲者慰霊祭が初めて開催。以降、工場敷地内や公民館で追悼の集いとして続いていたが、運営側の高齢化もあり16年が最後となった。

 日立造船の社内でも語り継がれてきたとは言い難い。元社員の村上秀雄さん(93)=同市因島田熊町=は空襲当時、別の工場に出勤中だった。敵機の襲来も目撃したが、あの空襲について「同僚と語り合った記憶がない」と振り返る。

 村上さん自身は戦後、同社の労働組合の運動に携わり、役員を務めた。労組で平和活動に取り組むケースは多いが、「因島空襲には考えが向かなかった」。高度成長期に向かう中、賃金や安全確保の交渉に追われていたという。

 継承を難しくしている一因には、公の資料で空襲の史実がほとんど触れられていないこともある。旧因島市史は「多くの施設を破壊された」、日立造船百年史には「数名の死傷者を出した」などの記述しかない。

 そんな中、同市因島椋浦町の著述業青木忠さん(75)が、草の根で因島空襲を記録してきた。体験者への聞き取り調査などから分かった空襲の実態をまとめ、08年には自費出版もした。その時に証言をしてくれた人は亡くなり、青木さん自身も老いた。

 「残せるものは残すよう努めた。今後は残されたものを継承することで未来に伝えていくしかない」と青木さんは指摘する。瀬戸内の島で確かにあった戦争の悲劇。記録の中だけの存在になってしまう瀬戸際にある。(神田真臣)

因島空襲
 尾道市の因島は1945年3月19日と7月28日、空襲を受けた。日立造船の因島工場と三庄工場が標的にされ、民家にも被害が及んだ。「100人以上が亡くなった」とする関係者の証言もあるが、公的な資料ではほとんど触れられておらず、被害の全容は分かっていない。

(2020年8月15日朝刊掲載)

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