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連載・特集

[考 fromヒロシマ] 米歴史家 「必要論」ただす 被爆75年 問われる原爆使用

批判的な若者増 国民的対話求める声も

 広島と長崎の「原爆の日」は、米国でも自国の重い歴史を刻む日だ。被爆75年は「4分の3世紀」であり、欧米では25年刻みの節目と捉える向きが大きい。原爆使用こそが戦争終結を早め、多数の米兵たちの命を救った、という考え方が根強い核大国で、ヒロシマ、ナガサキについてどんな議論や活動があったのか。その一端をみる。(金崎由美)

 広島の原爆の日を間近に控えていた7月29日、米国の歴史家4人がオンライン会議システムで「原爆投下決定について知っておくべきこと」と題し記者会見した。

 「私はいらだちを感じてきた。記録文書などで歴史的事実が立証されても、米国内の議論は1948年当時を引きずっている」。ニューヨーク市立大大学院センターのカイ・バード氏は、歴史研究者の間では主流の議論と裏腹に、「原爆が戦争終結に必要だった」などと国民の間で今も広く信じられている現状を嘆いた。

 「48年」は、原爆投下時の陸軍長官だったスティムソンが、日本本土に上陸となれば「米兵100万人以上、日本人はもっと死傷者が出ていた」と雑誌に寄稿した翌年を意味する。46年夏、ジャーナリストのジョン・ハーシーが広島の壊滅ぶりをルポした「ヒロシマ」がベストセラーになり、原爆使用への批判が高まっていたという。バード氏は「後に寄稿文のゴーストライターは『特に根拠はなく、批判をかわすには丸めた数字としてちょうど良かった』と認めた」と明かす。

 「ソ連が参戦すれば日本の降伏は決定的になる。天皇制の維持を約束すれば、日本は敗戦を受け入れる可能性が高い―。当時のトルーマン大統領が早くから情報を得ていた」とジョージ・メイソン大のマーティン・シャーウィン教授。だが米国は8月6日、ソ連参戦の先手を打って原爆を広島に使用。ソ連が満州に侵攻後、米国は長崎にも原爆を投下した。戦後の米ソ対立の構図が、明確になった。

 アメリカン大のピーター・カズニック教授は「対日戦争を経験した退役軍人の世代は少なくなり、原爆を批判的に捉える若者は増えている。確かに、変化はしている」と話す。それでも今、「神話」をあえてただすのはなぜか。「原爆が必要な時があった、とする過去の正当化を許す限り、理由を付けて核兵器が使われる可能性は残り、私たちを脅かし続ける」。核兵器は「絶対悪」であり、決して「必要悪」ではない、という被爆地の訴えと重なる。

 記者会見の数日後に4人は、ガー・アルペロビッツ氏とシャーウィン氏の代表署名でロサンゼルスタイムズ紙に寄稿。「原爆投下は戦争終結に必要なかった」とし、「核兵器使用を巡る誠実な国民的対話」の必要性を米国民に訴えた。

 米国の歴史家たちの議論を逆から見れば、戦況が厳しさを増しても日本は戦争を遂行し、原爆に奪われた自国民の尊い命も、戦争終結の決定打ではなかったということを意味する。戦争と原爆を巡る「誠実な国民的議論」の必要性。日本も問われている。

「米兵救った」 25年前も論議

日米にしこり 海外原爆展の端緒に

 原爆が多くの米兵の命を救った、などの「神話」は被爆50年の1995年にもクローズアップされ、日米双方にしこりを残した。

 首都ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館が90年代前半、「黒焦げの弁当箱」などの実物資料の展示を構想し、広島と長崎の原爆資料館に協力を求めた。すると退役軍人の団体などが「原爆がわれわれを救った」「反米的だ」と激烈な反対運動を展開した。

 当時のマーティン・ハーウィット館長は辞任に追い込まれ、原爆展は頓挫。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイ号の復元機体の一部だけが展示された。当時ワシントン市内のアメリカン大職員だった京都大の直野章子准教授らの手により、学内で原爆展が開かれた。

 これを起点に広島、長崎両市は海外原爆展に力を入れていく。今月13日、米国にとって対日開戦の象徴でもあるハワイ・真珠湾にある戦艦ミズーリ記念館で、同館運営団体との共催による「ヒロシマ・ナガサキ原爆・平和展」が始まった。被爆の実態を伝える地道な取り組みは、アメリカン大での第1回から19カ国52都市、計60回を数える。

「開発拠点」で折り鶴保存

平和メッセージも募る

 1940年代前半に本格化した米国の原爆開発は、マンハッタン計画と呼ばれる。ニューメキシコ州ロスアラモスなど3カ所を中心とする秘密、かつ科学の粋を集めた巨大国家事業だった。45年7月16日、同州内で核実験に初成功。3週間後に広島、次いで長崎で実戦使用した。核が地球を脅かす時代が始まった。

 5年前、その3拠点に残る原爆組み立て施設の遺構などが、国立歴史公園に指定された。管轄する国立公園局は現在、翼に平和への思いを書いた折り鶴や、オンラインの平和メッセージを募集中。ウェブサイト上で佐々木禎子さんを紹介し「折り鶴は『平和』と『生きる力』の象徴」と日本語でも応募を呼び掛ける。

 8月末締め切りで、鶴は被爆100年の2045年までタイムカプセルに保存するという。同公園管理者のクリス・カービー氏は「原爆投下75年の節目に第2次世界大戦の犠牲者を追悼するとともに、個々人が平和に思いを巡らせ、25年後に振り返る試みだ」と説明する。

 国立歴史公園化を巡っては、原爆開発を「誇り」として継承する場になりかねない、と被爆地と米国内の両方から深い懸念の声が上がった経緯がある。広島、長崎両市長は、原爆被害の実態に触れることや、核兵器の非人道性を伝えることを米側に要請した。

 それだけに、意外にも思える。ピーター・カズニック氏は「同公園の公式ツイッターは原爆開発が戦争終結に貢献、とも述べており、『犠牲はやむを得なかったが気の毒だ』との考えも透けて見える」と語る。「原爆は必要だったとする限り、米国の核保有の否定にはつながらない」とも指摘する。

 一方、被爆者の原田浩さん(81)=広島市安佐南区=は「原爆開発拠点での動きを前向きに受け止めたい。対話のきっかけを広げることは必要」と語る。スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展計画で揺れた当時、原爆資料館長だった。「米国が真に原爆被害と向き合おうとする時、あの博物館での原爆展も実現するのかもしれない」。エノラ・ゲイ号の機体は、広島原爆の犠牲者数などの説明がないまま03年から博物館の分館で常設展示されている。

(2020年8月24日朝刊掲載)

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