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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説主幹 宮崎智三 偽りの平和

核抑止の幻想 抜け出す時だ

 「やられたら、やり返す。倍返しだ」

 ご存じ、人気テレビドラマの主人公、半沢直樹の決めぜりふだ。番組のヤマ場でこの言葉を聞いて胸がすかっとする人がいるかもしれない。

 ただ、こうした言い回しはフィクションだから許されることだろう。かつての武士の世に、あだ討ちはあったが、今の社会では報復はお勧めできることではあるまい。

 ところが、「やり返す」ことを大前提にしている分野がある。安全保障である。東西冷戦が熱を帯びたころから、一つの考え方がはびこり始めた。相手に攻撃されても、やり返すだけの核兵器を残せるようにしておく。互いにそういう状態になれば、どちらも相手に手を出せなくなる。自分たちもやられてしまうからだ。それが抑止力となって平和が保たれる、というわけである。

 たとえ米国から先制攻撃され、指導部が全滅しても、ほぼ自動的に核兵器でやり返す。そんな仕組みまで当時のソ連はつくっていたほどだ。

 互いに相手を確実にやっつけられる―。「相互確証破壊」と呼ばれる考え方である。英語の頭文字で「MAD」と略す。まさに「mad(狂っている)」考えだと言えよう。

 人類を何度も滅亡させられる数の核兵器を持つ両国だが、「恐怖の均衡」で平和が保たれている。そう考えるのは幻想でしかあるまい。

 その後も両国は「抜け穴」を探そうと、多数の弾頭を持つミサイルの配備や命中精度の向上に励んできた。相手のミサイルから自国を守る仕組みづくりも試みられた。

 敵を出し抜こうと、こっちが盾を拡充すれば、相手は矛を強化したり数を増やしたりする。結局は、いたちごっこが果てしなく続く。

 しかも核抑止論は相手が理性的な判断をしてくれることを前提にしている。もし独裁的な政権が自暴自棄になってしまえば、危うさは増す。自分たちは破滅しても、死なばもろともとばかりに捨て身の攻撃に出る場合には成り立たないだろう。

 日本に関して言えば「核の傘」で攻撃が防げるのか。逆に「避雷針」のように雷を招き寄せてしまうのではないか。疑問は尽きない。

 韓国の民間航空機を北朝鮮が戦闘機と誤って打ち落とす…。そんな小説が今年春、邦訳・出版された。関係国の判断ミスなどが重なって核戦争にまで発展する。2年前に米国で出版され、話題になった。それもそのはず、核問題や国際政治の専門家が各国の首脳を実名で描いている。核抑止論の危うさが伝わってきて、「絵空事」だと笑えそうにない。

 最近は特に先端技術によって核抑止論は信頼性をさらに失いつつあるとも指摘される。例えばサイバー攻撃で核兵器を動かすシステムが狙われ、制御できなくなれば、やり返すこと自体が難しくなるそうだ。

 では、どうすれば良いのか。答えは出ている。昨年秋に広島、長崎の両被爆地を訪れたローマ教皇フランシスコの言葉を思い出したい。「核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。真の平和とは非武装の平和以外にありえません」

 核兵器による惨禍を繰り返さないためには核兵器をなくすしかない。まずは虚妄と言える核抑止論から早く抜け出すべきだ。折しも、核兵器禁止条約も、発効まで残り6カ国・地域と秒読み段階に達しつつある。

 しかし核保有国は廃絶の動きに逆行している。米国とロシアは「使える核兵器」を目指して小型核開発を進め、中国も急速に軍備を増強している。今年1月、地球最後の日までの残り時間を概念的に示す米科学誌の「終末時計」は過去最悪の「100秒」になったほど状況は深刻だ。

 禁止条約が発効しても、保有国の態度がすぐ変わるとは思えない。それでも国際社会が核兵器の使用や威嚇はもちろん、保有も法的に禁止する意味は小さくないはずだ。日本を含め、核抑止論の幻想から目覚めるきっかけにしなければならない。何より自分や家族の命、ひいては人類の未来を守るためである。

(2020年9月3日朝刊掲載)

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