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連載・特集

縮景園築庭400年 <下> 復興

原爆で壊滅 樹木植え直す

建造物は礎跡・絵図 参考に

 1945年8月6日。原爆により広島の街が焼き尽くされた日、爆心地から1・3キロの縮景園(広島市中区)も灰じんに帰した。75年がたった今、園内は壊滅時の痕跡がほとんど分からないまで復興した。今年築庭400年を迎えた園はいかにして、かつての輝きを取り戻していったのか。

 87年夏、広島県教委の発掘調査で京橋川に面した園内北端から64体の遺骨が見つかった。被爆直後に埋葬された犠牲者のものだった。翌年、地元町内会などでつくる供養会が慰霊碑を建立。以来、「原爆犠牲者慰霊供養式」が毎夏、園内で営まれている。

 園は近隣の学校や住民の避難所だったため、被爆後は大勢が押し寄せ園内で数千人が命を落としたとされる。園の西隣に住む岡部喜久雄さん(71)は10年ほど前から毎年、供養式に参加する。「地元でも被爆の歴史を知る人は少なくなった。遺骨を弔い、見つかったのは犠牲者のほんの一部だと伝えていきたい」と語る。

 壊滅的被害を受けた園は終戦直後に一時、幟町国民学校(現幟町小)の教場になったこともある。広島県は47年に再び公園として整備するため、園復興計画の予算を計上。49年に復旧事業が始まった。

 まず被爆後に市街より持ち込まれた、がれきの撤去から始められた。県職員として携わった、歌人の故豊田清史氏(2011年に90歳で死去)は著書「広島随想」で、園内に掘っ立て小屋を建てて住んでいた人々が作業に当たったと回想する。当初は混乱期の雇用確保も目的の一つだった。

 松や梅などの樹木を植え直して1951年、再開園にこぎ着ける。それでも建物の復元は手つかず。56年、小学2年生のとき家族で来園したという上山哲一さん(72)=安佐南区=は「木がまだ低くて石灯籠ばかりごろごろと目立っていた」と話す。

 61年に表門を復元。続いて63年、園内で中心的な数寄屋造りの清風館に取りかかる。被爆前の清風館の詳細な図面はなく、礎石跡や戦前の絵はがき、「御泉水惣絵図」など江戸時代の絵図を参考に手探りで進める難事業だったが、翌年完成する。

 茶道上田宗箇(そうこ)流の16代上田宗冏(そうけい)家元(75)は「清風館での茶会にはあふれんばかり、千人くらいが詰め掛けた」と当時の熱気を懐かしむ。「広島の人は何か心を満たす文化を求めていたのでしょう」

 江戸時代から残っていた建造物の復元は74年完成の明月亭で一段落。76年に管理棟ができ、約30年がかりの復旧事業に区切りがついた。

 園の在り方を巡っては曲折もあった。今の表門近くに64年、噴水池や旧広島藩主浅野氏の家紋をかたどった花壇ができ、現代風の公園として整備された。著名な庭園研究家の重森三玲(1896~1975年)は著書で「本園全体の芸術価値を阻害する」と批判。後に撤去された。

 園をどのような形で伝えていくかは、私たちが考える問題でもある。復興を経て回復した江戸時代以来の美を守ることは大切だ。一方、岡部さんは「広島の人は親しみを覚えるとともに漠然と敷居の高い場所とも感じているのでは」と懸念する。「もっと気軽に遊べる場と思ってもらえたら」

 近年外国人観光客らに人気のある園は昨年度、29万5千人が訪れた。だが新型コロナウイルスの流行で、本年度は今月14日までの来園者が2万4千人にとどまる。節目の今年、地元が誇る大名庭園の来し方と将来に思いを巡らしてみるのはいかがだろうか。(城戸良彰)

(2020年9月19日朝刊掲載)

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