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社説・コラム

『別れの記』 日本被団協元代表委員 岩佐幹三(いわさ・みきそう)さん

9月7日 91歳で死去

母妹胸に反核へ闘志

 核兵器禁止条約の批准などを日本政府に迫るため、日本被団協が昨年6月、国会内で開いた集会に顔を腫らして現れた。大丈夫だよ、と笑った顔が忘れられない。「ちょっと転んだだけ。いつも言ってるでしょ? 命ある限り僕は闘うんだ」。その言葉の通り、原爆と闘い続けた人生だった。

 修道中に在学していた16歳の時、爆心地から1・2キロの広島市富士見町(現中区)の自宅の庭で被爆した。最愛の母は目の前で家の下敷きになった。「逃げんさい」と促し、般若心経を唱え始めた母を背に猛火から逃れた。建物疎開に出ていた12歳の妹も失った。

 「『僕も後で逝くからね』って母を見捨てたんだ。こんな年まで生きて、親不孝だよね」。あの日を語る目は、いつも悲しみをたたえていた。

 その自責の念が原爆への憎しみを募らせた。1954年、米国のビキニ水爆実験で日本のマグロ漁船が被災した事件を機に反核運動に関わり始めた。当時、金沢大で英国思想史を教えていた。60年には石川県の被爆者団体を創設。被団協の中核も担うようになった。

 被爆者援護法の制定を世に訴えようと、被団協が80年代に進めた被爆者の実態調査をけん引。各国を巡り、世界に訴えを響かせた。「被爆者の無残な最期は『人間としての死』と言えるものではなかった」「核廃絶に前進が見られない限り、犠牲者に『無駄死にじゃなかった』と言えない」。言葉に宿るすごみは、心の痛みを知るからこそなのだろう。

 千葉県船橋市にある一家の墓を一緒に参ったことがある。墓石には「悠久の祈り―平和」の文字。「僕の誓いです。平和を願い、苦難を伝え続けますってね」。四十九日の法要を迎える10月、母と妹の隣で眠りに就く。同条約の発効に必要な批准国・地域は23日現在、あと5に迫った。その日を墓前に報告できなかった岩佐さんの無念さをかみしめたい。(田中美千子)

(2020年9月24日朝刊掲載)

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