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遺品 無言の証人

[無言の証人] 広島流川教会 使い込まれた羽釜

戦後の食糧難も共に

  広島流川教会牧師館の焼け跡から掘り出された羽釜。被爆後もコメの炊き出しなどに使われた=1999年、谷本チサさん寄贈(撮影・高橋洋史)

 使い込まれた金属製の羽釜。広島市幟町(現中区上幟町)にあった広島流川教会牧師館の焼け跡から掘り出された。爆風の衝撃のためか、直径30センチの釜のふちは所々ゆがみ、熱で溶けたような跡も残る。

 「原爆が投下された後、父が台所付近で見つけたのでしょう」。戦時中、牧師館で暮らしていた故谷本清牧師の長女、近藤紘子さん(75)=兵庫県=は振り返る。生後8カ月だったあの日、母チサさんの腕に抱かれ、牧師館の玄関先で被爆した。

 爆心地から約1・3キロ。爆風で家屋は倒壊し、屋根の下敷きになったチサさんは意識が遠のく中、娘の泣き声でわれに返り必死で脱出したという。直後に周囲は火の海と化し、約560メートル南にあった広島流川教会も塔と壁を残して焼失した。所用で教会を離れていた谷本牧師は、急いで妻子の無事を確認した後、負傷者の救護にまい進する。

 谷本家は戦後の一時期も羽釜を使い続け、1999年5月、チサさんが原爆資料館に寄贈した。「この釜と一緒に生き延びた、という思いがあったのでしょう。戦後は食糧がなく、焼け跡でコメを探し歩いたと父から聞きました」と紘子さん。長年、被爆女性の渡米治療や、原爆孤児の支援に力を注いだ夫を陰で支えたチサさんは、2011年に95歳で他界した。紘子さんが両親の遺志を継ぎ、平和活動を続けている。(桑島美帆)

(2020年9月28日朝刊掲載)

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