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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆75年 新聞協会賞受賞 奪われた命 追い続ける

 「14万人±1万人」。米軍が広島に原爆を投下した1945年8月6日から、その年の末までの犠牲者数とされている。一人一人に名前があり、暮らしがあった。この地で理不尽に奪われた命を思う時、1万人単位の誤差を当然のように受け止めていいはずがない。しかも「14万人」という数字自体、推計値にすぎない。46年以降も、多くの命が奪われていった。

 原爆被害については、実は死者数をはじめ、なお明らかでない実態があまりに多い。連載企画「ヒロシマの空白 被爆75年」の取材班は、2019年11月の連載開始以来、取材の中で「空白」を埋める手だてを模索し続けている。年月にあらがい、できることはまだある。まだ間に合う。

連載の歩み

埋もれた名前

 広島市が1945年8月6日からその年末までの広島の原爆犠牲者数として示してきた「14万人±1万人」は、確たる裏付けはない推計値。一方、市が様々な資料から犠牲者名を積み上げる「原爆被爆者動態調査」で把握している実数は、昨年3月末時点で8万9025人だ。

 数万人もの開きがある。市が名前をつかめていない犠牲者が多くいる。では、どんな人が「空白」なのか。何ができるだろうか。

 遺族が届け出たことで、昨年やっと動態調査に加えられた母子ら4人は、爆心地近くで一家全滅していた。未就学児らは、学校や企業の死没者名簿に残らないため、存在をつかみにくい。中には原爆投下当日に生まれ、名前がまだない新生児の犠牲者もいた。

 軍務のため広島市内に一時滞在中、被爆死した人たちの実態を知ろうと、戦没者名簿などの資料を探し歩いた。戦後に北朝鮮に渡り、日本政府から援護を受けられないまま死去した被爆者の遺族や、幼かった被爆時に家族とはぐれたため自分の本当の名前を知らない男性の思いを報じた。

 「埋もれた名前」を掘り起こそうとすることは、犠牲者一人一人の命の尊厳を取り戻そうとする努力にほかならない。

帰れぬ遺骨

 家族の元に帰れぬまま、平和記念公園の原爆供養塔や各地の寺などに原爆犠牲者の遺骨が眠る。かたや、肉親の遺骨を捜し続ける遺族がいる。両者をつなぐことは、できないか。

 「約7万体」とされる原爆供養塔の遺骨のうち、814人には名前があり、広島市が納骨名簿を公開している。同じく公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録された死没者名と照合した。すると納骨名簿に「鍛治山はる(皆実町三丁目)」さんが、祈念館には同じ住所の「梶山ハル」さんの名があった。遺族と市で、遺骨返還に向けた話し合いが始まった。

 原爆資料館東館付近に当たる爆心直下の旧天神町で、3世帯6人が被爆死していた事実を取材班は新たに突き止めた。同時に、被害実態の解明を阻む壁に、たびたび直面した。「三木順次」さんは、納骨名簿に住所の「天神町66」も明記されているものの、事実の裏付けは取れなかった。

 日本各地を歩き、死者の無念と、遺骨を巡る遺族の積年の思いと向き合った。戦争を遂行した国は、遺骨収集や返還に責任を負わないのか、直接問うた。市民は戦争被害を「等しく我慢しなければならない」。国がよって立つ「戦争受忍論」が、常に原爆被害者の前に立ちはだかる。

さまよう資料

 体験者の手記、医師らが残した記録、被爆後の写真などの資料は、直後からさまざまな形で残されてきた。原爆被害の実態解明に欠かせない。今、劣化や散逸、廃棄の危機にさらされている。

 占領下で米軍に接収され、1973年に日本へ返還された広島原爆の犠牲者の組織標本は、対策が待ったなし。デジタル画像にして残し、被爆の健康影響を探る研究に生かそうとする研究者たちの努力を知った。近年、海外に眠る原爆写真の掘り起こしに力を入れている原爆資料館の収集事業も取材した。

 被爆者健康手帳の交付申請書は、一人一人の被爆状況を記した記録資料でもある。一部の自治体で廃棄が進んでいた。しかし、国は動こうとしない。

 体系的に残すべきは、被爆者団体が蓄積してきた資料にも言える。高齢化に伴い団体の解散が相次ぐ。個人資料も、被爆者の戦後史を映し出す。いずれも、市民が手弁当で保存を模索していた。

 さまよう資料を守り、互いを結びつけること。国こそ責任を持って取り組むべきことだ。時を超えて実態を伝える「証人」が散逸しないよう、今こそ官民が一体となって知恵を絞る時だ。

国の責任を問う

 日本政府は、国民は戦争被害を等しく我慢しなければならない、という「戦争受忍論」に依拠している。原爆犠牲者・遺族への「国家補償」を求める被爆者団体の訴えに、背を向けてきた。それは、原爆被害の全容を進んで知ろうとしない「不作為」と表裏一体だ。

 国の被爆者援護施策の外に置かれてきた人たちを訪ね歩いた。家族5人を奪われ、原爆孤児として苦難を強いられた女性は疎開先にいて「被爆」こそしなかったが、「私のような原爆被害者もいると知って」と語る。

 国の援護対象区域の外で「黒い雨」に遭った女性や、被曝(ひばく)の遺伝的影響を懸念する「被爆2世」の声に耳を傾けた。「二度と繰り返してはならない」からこそ、被爆者たちは国家補償と核兵器廃絶を両輪として捉え、国に訴えてきた。その被爆者の思いを聞いた。

 国が原爆被害への国家補償に一貫して後ろ向きなのは、東京大空襲などほかの戦争被害への波及を恐れていることが背景にあった。過去の公文書などから、その隠れた意図を浮き彫りにした。戦後75年の今、問われるべき国の責任を「時効」にしてはならない。

朝鮮半島の被害者

 「14万人±1万人」と「8万9025人」の落差の間にある「空白」の少なくとも一部が、日本が植民地統治していた朝鮮半島の出身者であることが一層明らかになってきた。原爆に命を奪われて、あるいは戦後に朝鮮半島に戻ってから亡くなった人たちである。

 広島市は動態調査を続けているが、海外の被爆者団体や公的機関が所蔵する名簿類といった資料は、参考にしていないという。そこで記者は韓国に赴いた。

 陜川(ハプチョン)の韓国原爆被害者協会に、会員や家族の被爆状況などを記録した大量の文書が保存されている。これを手掛かりに調べると、市が把握していない原爆犠牲者が少なくとも11人いることが判明した。

 保存文書は、原爆を生き延びた在韓被爆者の戦後の辛苦も刻む。「徴用」「子どもは爆死」「極貧」…。「創氏改名」で強いられた日本式の名前が併記された名簿もあった。最近、一部が現地の大学生たちの手でデータ化された。「日韓が国と地方両方のレベルで連携し、活用してほしい」―。被爆地から応えるべきだろう。

つなぐ責務

 被爆75年の原爆の日が近づいていた時期、自ら「ヒロシマの空白」と向き合おうとする市民の姿を見つめた。

 連載を読んだのをきっかけに、市の原爆死没者名簿に家族の登載を申請した遺族らがいた。一人一人の市民の行動が、重要な鍵となることを身をもって示していた。それは、長年にわたって地道に行動してきた人たちの意思を継ぐ営みでもある。

 原爆で家族や親類13人を失い、原爆供養塔の掃除を続けながら遺骨の引き取り手を捜し歩いた故佐伯敏子さん。広島で被爆死した米兵捕虜たちの調査と慰霊を続けてきた森重昭さん…。次は、私たちが行動する番だ。市民、自治体、国。皆が力を合わせ、「空白」を埋める手だてを探っていく責務を取材班は確かめた。

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街並み再現

写真が語る歴史や暮らし サイト開設 読者提供など1000枚掲載

 焦土からの復興を遂げた広島市内で、75年前の「あの日」までの街の名残を探すことは難しい。手掛かりとなるべき行政資料や記録類も、原爆は焼き尽くした。ならば被爆前の写真を寄せ集めて、せめてもの「街並み再現」ができないか―。

 取材班は、かつての広島市中心部を捉えた写真のデータ提供を読者に呼び掛け始めた。すると、個人宅で保管されてきたアルバムが次々と寄せられた。

 戦争中、空襲に備えて家財道具を郊外に疎開させた際に持ち出され、奇跡的に残っていたカットも少なくない。「資料」として貴重であるだけでなく、持ち主にとっては、原爆に奪われた家族との思い出そのものだ。逆に、遺品整理で廃棄寸前だった一枚もあった。

 読者からの提供写真と、広島市公文書館など公的機関の所蔵資料を合わせて一覧できるウェブサイトとして今年1月末、「ヒロシマの空白 街並み再現」を開設した。グーグルマップ上に配置した掲載写真はすでに千枚を突破した。募集と収集、公開を通して、原爆に奪われた街の記憶を市民と共有していく。

「若い人にも伝えたい」5枚を寄せた岩田さん

 「これなら、被爆前の日常や街の雰囲気をインターネット上で半永久的に伝えていくことができると思いました」。大正期創業の茶葉専門店「綿岡大雅園」を受け継ぐ岩田美穂さん(62)=広島市中区=は、母の綿岡智津子さん(2011年に82歳で死去)がのこした被爆前の写真5枚を取材班に寄せた。

 現在と同じ場所にあった住居兼店舗は、爆心地から約740メートル。原爆で壊滅した。当時16歳だった智津子さんは、両親と3人の妹を失った。「語るにはつらすぎたのでしょう。母から原爆のことを聞かされたことは、ほとんどありませんでした」と振り返る。

 小さな妹たちがほほ笑む姿や、茶葉が積まれた倉庫で従業員に囲まれた家族を捉えたモノクロ写真。写真館にプリントが残っていたため、焼失を免れた家族写真もある。「1枚を除いて、母はすべて仏壇の下にしまっていました。人の目に触れることがないままになっていたかもしれない」

 時折「街並み再現」のウェブサイトを開き、グーグルマップ上に掲載された一枚一枚に見入る。「多くの市民の生活が原爆に奪われたのだ、と自分のことのように感じます。若い人にも知ってもらいたい」。写真が無言で語る、街と家族の歴史に思いをはせる。

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原爆平和報道 多角的に取り組む

 中国新聞が編集部門で新聞協会賞を受賞するのは、今回で10回目。うち5回が原爆平和関連だ。原点は、75年前の8月6日にある。

 社員の約3分の1に当たる114人が死亡。爆心地から約900メートルの社屋は全焼し、印刷不能になった。深刻な打撃を受けながらも、3日後に代行印刷で、3カ月後には本社での新聞発行にこぎ着けた。

 被爆20年、30年など節目の年の連載はもとより、後に平和記念公園となった爆心直下の住民らの被爆死の状況を、遺族らの協力を得ながら掘り起こしていった「遺影は語る」、世界中の知られざる核被害を伝えた「世界のヒバクシャ」など、数々の記事を世に問うている。世界の核状況にも常に目を向ける。「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか」。故金井利博元論説主幹の言葉が、一つの道しるべとなっている。

 2008年には「ヒロシマ平和メディアセンター」を設立し、原爆平和報道にさらに多角的に取り組んでいる。

 膨大な報道の蓄積が「ヒロシマの空白 被爆75年」の土台である。だが、いまなお1万発を超える核兵器が世界を脅かしている。ヒロシマ・ナガサキを繰り返させない、という原爆平和報道の使命はまだ道半ばだ。

<中国新聞社の新聞協会賞受賞歴>

【編集部門】
1959年    連載企画「瀬戸内海」
  65年    原爆報道「ヒロシマ20年」
  85年    原爆報道「ヒロシマ40年」
  86年    連載企画「シベリア抑留」
  90年    連載企画「世界のヒバクシャ」
  95年    原爆報道「ヒロシマ50年」
  99年    写真企画「であい しまなみ」
2002年    キャンペーン「断ち切れ 暴走の連鎖」
  12年    写真企画「命のゆりかご~瀬戸内の多様な生態系」
  20年    連載企画「ヒロシマの空白 被爆75年」

【経営・業務部門】
1986年    地域情報ネットワークの展開
  87年    「ひろしまフラワーフェスティバル」の創造と展開
  92年    エリアデータベースの構築と活用―情報新時代の販売所経営
2009年    夢のボールパーク誕生サポート―地域とともに歩む総合メディア
         企業の実践―
  16年    中国新聞SELECT(セレクト)の創刊―新たな活字メディア
         戦略に挑む―

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ヒロシマの空白 関連ウェブサイト
・ヒロシマの空白 街並み再現
・ヒロシマの空白 被爆75年(連載記事を掲載)
・ヒロシマ平和メディアセンター(中国新聞の原爆平和記事を網羅)

被爆前の写真 探しています
 広島市内の被爆前を捉えた写真をお寄せください。写真は、データをスキャンした後に返却します。
 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター☎082(236)2801
peacemedia@chugoku-np.co.jp

【取材班】キャップ 水川恭輔
          山本祐司
          山下美波
          河野揚
          小林可奈
          桑島美帆
          新山京子
     デスク   金崎由美
【紙面編集】    山本庸平
【街並み再現ウェブサイト構築】  神垣泰宏

(2020年10月8日朝刊掲載)

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