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社説・コラム

『潮流』 苔むした「軍歌」の碑

■論説委員 田原直樹

 「Go To トラベル」効果か、京都・嵐山には観光客が戻っていた。NHKの朝ドラ「エール」主人公のモデル、古関裕而ゆかりの地でもある。渡月橋を渡った保津川沿いの暗い木陰にその碑は立っていた。

 露営の歌 勝って来るぞと 勇ましく―。高さ2メートルの石に刻んである。日中戦争勃発直後に古関が作曲した「露営の歌」の碑だ。

 80年余りたった今、碑は苔(こけ)むして、裏面に彫られた古関の名は半分、砂利に埋もれている。ドラマ人気で訪れる人もあるかと思いきや、誰もいない。

 新聞社が募った軍歌の詞に曲を付けた。ドラマの主人公は家で作曲するが、実際は満州(現中国東北部)旅行の帰り、東京への列車内で作った。山陽線各駅で見た、戦地へ赴く兵士を見送る光景からも想を得て。

 曲は大ヒット。全国で兵士見送りの際に歌われた。古関は「軍歌の覇王」とされ、数多く作っていく。

 ドラマなのだから史実と多少異なるのは当然だが、気になることもある。近現代史研究者の辻田真佐憲さんは、古関の曲を「軍歌」ではなく「戦時歌謡」と呼ぶのを問題視する。

 「覇王」古関も、戦後の自伝で「露営の歌」は軍の命による軍歌ではなく戦時歌謡―と記す。その背景を辻田さんは、戦後に軍歌への風当たりが強くなったため、と著書で考察する。

 だがなぜ今も軍歌の語を避けるのか。多くの音楽家が軍歌を書き、画家や作家も戦争を題材に創作した。時代の空気にあらがえず国民は戦争にのみ込まれた。その空気を検証、記憶すべきなのに、言葉を言い換えては見えにくくしないか。

 「長崎の鐘」「オリンピック・マーチ」などで戦後日本を元気づけた、偉大な作曲家だろう。だからこそ戦前・戦中の古関メロディーをしっかりと受けとめ、耳も傾けて、昭和という時代を記憶しなくては。

(2020年10月10日朝刊掲載)

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