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連載・特集

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <3> 復興のメロディー

音楽教育 子と孫の代に

 原爆で亡くなった女子学生・河本明子さんを教えた「ピアノの先生」たちは、戦後も広島で音楽教育に情熱を傾けた。原爆で傷ついた人々を時に励まし、復興を支えたそれぞれの足跡は今に引き継がれる。

 明子さんの日記には3人の「ピアノの先生」が登場する。1933(昭和8)年に入学した広島女学院付属小学校(広島市中区)時代、低学年らしいひらがなで書かれた日記には「くーぱー先生」がたびたび現れる。

 米国人の女性宣教師ロイス・クーパーさん(1889~1977年)は28年に来日し、広島女学校(現広島女学院中高)の音楽教諭となった。太平洋戦争開戦前年の40年、軍部の圧力が強まり米国に帰国したが、戦後に再び来日。55年に定年退職して帰郷するまで広島女学院で教えた。

 「ラベルの『水の戯れ』の演奏はすばらしく、夢のようなひとときだった」。街に原爆の傷痕が残る50年ごろ。牛田本町(東区)にあったクーパーさん宅でクリスマス会が開かれた。牛田小6年だった田中千代さん(81)=埼玉県=は、クーパーさんの奏でた音色を鮮明に記憶する。会にはピアノを習っていた子どもたち、盲学校の生徒も招待されていた。

 田中さんは原爆で父と兄、祖父を亡くし、仕事が忙しい母を支えながら姉、妹と暮らしていた。「ピアノを弾いてみたい」という夢を胸に、小学校の担任から借りた古い教本を抱えてクーパーさん宅を訪ねた。

 「教本を見て『バイエルは好きじゃないのよ』と。代わりに『バッハのメヌエット』の楽譜をくださった。クーパー先生にピアノを習わなかったら、違った道に進んだでしょうね」。10年後、田中さんは広島大を卒業し、念願の音楽教諭になる。結婚後は埼玉で半世紀にわたってピアノを教えた。娘と孫も音楽の道を歩む。

年の瀬飾る歌声

 明子さんの日記によると、小学4年で転校した三篠尋常高等小学校(現三篠小)時代は、ピアノの個人レッスンを「畑先生」から受けた。東京音楽学校(現東京芸術大)の出身で、戦前から戦中にかけて広島女学院の音楽教師を務めた畑とみゑさん(1882~1988年)とみられている。

 畑さんの戦後の消息は、明子さんの父源吉さんの日記から判明した。54年、被爆者支援や平和活動に尽力した流川教会の谷本清牧師(86年に77歳で死去)と一緒に河本家を訪れていた。

 同教会に残る資料によると、キリスト教徒だった畑さんは戦前から礼拝のオルガン奏者を務め、戦後は焼け落ちて壁だけとなった教会で聖歌隊を指導。いち早く、広島の空に歌声を響かせた。原爆から2年後の47年12月、米国から贈られた楽譜でヘンデル「メサイヤ」を合唱。谷本牧師たちと歌う姿の写真が残る。以降、流川教会の「メサイヤ」は広島の年の瀬を飾る歌声となっている。

「次は私たちが」

 「音楽は今年は沓木(くつき)先生だ」。明子さんが広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)時代にピアノを習った音楽教諭の沓木良之さん(1893~1979年)。広島県師範学校(現広島大)で音楽を学び、合唱指導者としても活躍した人物だった。歌が大好きだった明子さんは日記に、登山で目を負傷した沓木さんを心配する記述も残している。「私の知る祖父も山登りが好きだった」。孫の中学教諭、里栄さん(53)=安芸区=は懐かしむ。

 45年8月6日、市女は学徒動員中の生徒を中心に教職員を含め676人が犠牲になった。沓木さんは引率先の工場が休業日だったため、自宅にいて被爆するも助かった。「(市女生を探して回ったが)一名の生存者に会えず。悲痛の極みである」との手記を残している。家族では六男の明さんが行方不明となった。

 今夏、里栄さんは沓木さんの市女時代の教え子と対面。祖父が亡くなる前年の78年に作曲した「追悼歌」の楽譜を手渡された。高校生と中学生の娘2人に伝えると、思いがけない言葉が返ってきた。「次は私たちが語り継ぐ番だね」。舟入高の吹奏楽部は毎年8月6日、この「追悼歌」を奏で続けている。(西村文)

(2020年10月15日朝刊掲載)

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <1> 最後の親友

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <2> 二つの被爆楽器

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <4> 日米の懸け橋

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <5> 次世代への継承

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