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連載・特集

[戦後75年 二つの被爆地 中国・西日本2紙共同企画] 実物資料保存・展示 現状は

 広島と長崎の原爆資料館が収蔵、公開している実物資料には、熱線や爆風のすさまじさが刻まれている。犠牲者の遺品が、死者の無念や遺族の悲しみを今に伝える。被爆者の肉声を聞くことができなくなる将来、さらに存在感は増すだろう。一方で、年月の経過による劣化や、収蔵スペースの確保などが課題になっている。あの日の「無言の証人」の現状を探る。(中国新聞・山本祐司、西日本新聞長崎総局・西田昌矢)

広島 収蔵庫手狭 災害対策も

常設展入れ替え公開

 広島の原爆資料館(広島市中区)は、原爆犠牲者の遺品や熱線を浴びた瓦をはじめとする実物資料2万点や、米軍が撮影した被害記録などの写真7万点、市民が描いた原爆の絵5千点を所蔵する。「わたしたちにお預けいただけませんか」とポスターなどで呼び掛け、遺族など毎年50~70の個人・団体から寄贈を受ける。

 学芸員は現在8人。1993年から4年間館長を務めた被爆者の原田浩さん(81)は「就任当初、専任の学芸員がおらず心もとない態勢だった」と振り返る。

 爆心直下に整備された平和記念公園に原爆資料館が開館したのは、被爆から10年後。自ら資料収集に力を尽くした故長岡省吾さんが初代館長を務めた。被爆50年を控えた94年、収蔵庫を備えた東館ができた。それまで、被爆外壁などの資料を近くの市の敷地に野積みしていた時期もあった。

 95年に専任の学芸員2人を置き、収蔵品の目録作りと将来的なデータベース構築に着手する。市は98年、資料館の管理運営を外郭団体の広島平和文化センターに委託した。平和行政の後退を懸念する声も出たが「市条例に制限されず、人員配置ができるようになった」と原田さんは話す。

 資料館が頭を抱える課題の一つが、資料の収蔵スペースの確保だ。2014年に四つ目の収蔵庫を確保したが、「ぱんぱんになってきた」という。「今後、大規模な寄贈がある場合にどうすればいいのか」と主任学芸員の落葉裕信さん(43)。収蔵庫は地下にあり、豪雨災害を想定した浸水対策も急がれる。

 「広島平和記念資料館条例」によると、同館の設置目的は「原爆被害の実相をあらゆる国々の人々に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与する」こと。19年4月にリニューアルオープンした本館の常設展示は、動員学徒の遺品の服やかばんなど、実物資料を中心に据える。定期的に入れ替える方針だ。公開に伴う資料の劣化を防ぐためだが、収蔵庫に眠ったままの大量の資料を少しでも多く公開することで、「生かしてほしい」という寄贈者の願いに応えることができる。

 13歳だった妹の森脇瑤子さんを失った被爆者の細川浩史(こうじ)さん(92)=中区=は18年、制服などの遺品を寄贈した。ただ、原爆投下の前日の8月5日まで書かれた日記だけは「なくなれば自分の体に穴が空くような気持ちになる」。悩んだ末、手元に置いている。

 形見への断ちがたい思いと、寄贈に託す願い―。細川さんは長年の証言活動とともに、原爆資料館の展示を来館者に解説する「ヒロシマピースボランティア」を続けた。「実物資料は、あの惨状を自分事として捉えることを見る者に促す。特に遺品は、一つ一つが犠牲者の生きた証し。証言とは違う説得力を持つのです」

長崎 進む劣化 レプリカ制作

費用・人手不足に悩む

 長崎原爆がさく裂した時刻の11時2分を示したまま、針が止まった「被爆時計」。見る者に惨劇の瞬間を想像させる代表的な被爆資料が10月、長崎原爆資料館(長崎市)の展示から外された。レプリカ(複製品)を制作するためだ。

 爆心地から約800メートルの山王神社に近い民家で、あの瞬間まで時を刻んだ時計は、1949年に市に寄贈された。資料館では常設展示室の入り口に飾られ、来館者を出迎えていたが、被爆から75年の歳月で金具などの劣化が進む。

 時計だけではない。「展示中の衣服は照明で変色、被爆当時の色はすでに失われています」と資料館学芸員の弦本美菜子さん(31)。黒焦げになった弁当箱、溶けたガラス瓶など、原爆の熱線や爆風を受けた被爆資料は劣化が進みやすいという。

 約2万点の被爆資料を収蔵する資料館で喫緊の課題となっているのが、こうした劣化が進む資料の保存と活用方法だ。長崎市は「数世紀先まで原爆の悲惨さを伝えるため」(弦本さん)、今年からレプリカの制作に着手。第1弾の被爆時計は来年3月に完成の予定で、それまでは写真が飾られる。

 ただ、第2弾は決まっていない。時計のレプリカにかかった費用は313万円。「慰霊目的」として厚生労働省から助成を受け、3分の2を費用に充てた。「今年は75年の節目で助成金も多かった。次はどうだろうか…」と市被爆継承課の前田一郎課長は語る。

 被爆資料の整理も進んでいるとは言い難い。

 被爆状況を調べた資料はホームページ上で公開することになっているが、約2800点にとどまる。常勤の学芸員は弦本さんを含め2人。長崎平和推進協会と共同で調査しているが2万点の資料全てにはとても目が届かない。

 資料館の前身は1949年開館の「長崎国際文化会館」。収蔵庫がいっぱいになり、来場者が増えたことから、96年に被爆50周年事業として現在の長崎原爆資料館を開館した。

 常勤の学芸員が配置されたのは、開館から12年後の2008年。それまでは一般の市職員が資料の整理や調査を担当し、原爆や資料の歴史に詳しい人はいたものの、数年で異動になることから資料館職員として培った知識や経験が蓄積されなかった。

 「資料館の役割は今後大きくなっていく」と指摘するのは芥川賞作家で2010~19年まで資料館館長を務めた青来有一さん(61)。一方で、人類が最後に体験した惨劇を伝える資料の保存を人口40万人の自治体だけで担うのは限界があるとし「多方面に協力をお願いするしかない。運営には工夫が必要になってくるだろう」と話す。

(2020年11月23日朝刊掲載)

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