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[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 踊り子や宴会 心弾む世界 壊滅前の羽田別荘

 広島市中区舟入町の料亭「羽田別荘」は戦前、子どもも大人も楽しめる、いわばテーマパークだった。原爆で壊滅後、焼け野原から再起した。女将(おかみ)の羽田悦子さん(71)が先代から受け継ぐアルバムや、「羽田別荘少女歌劇団(ハダカゲキ)」にいた故松永勝子さん寄贈の写真などから戦前戦後をたどる。(桑島美帆)

 カメラを構える男性たちの前で、踊り子たちがポーズを決めている。1938年ごろ庭で撮影されたとみられ、当時のにぎわいが伝わってくる一枚だ。

 羽田別荘は、故羽田謙次郎氏が1900(明治33)年に茶屋として始めた。近くに西遊郭がある立地。周辺の田畑などを買収し、最盛期は約1万3千平方メートルの敷地を有した。ヒョウやラクダがいる動物園や、桜の名所としても知られた。

 29年に市内で開催された昭和産業博覧会のパンフレットには「簡易な食堂もあり半日夜にかけて遊ぶも飽かず」「子供連れは、博覧会と羽田動物園が一番よい」とある。中でも「ハダカゲキ」は18年12月の初演時から評判で、一時は団員約50人を抱えた。各地で喜劇やダンスを上演。東京と大阪で仕立てたという豪華な衣装も目を引いた。

 しかし、太平洋戦争が始まる直前の41年に解散。羽田別荘の建物は、西部軍司令官官舎として使われた。45年8月6日、爆心地から約1キロの一帯は焼失した。広島原爆戦災誌は、敷地内で87人の遺体が見つかったと記す。謙次郎氏を継いでいた敏郎さんも犠牲になった。

 築山の陰にいた敏郎さんの妻ミチエさんと、疎開先にいた長男篤司(とくじ)さん(2012年に74歳で死去)は生き残った。48年、占領軍の接待施設として広間を再建した。政財界の要人や著名人に愛され、当時のケリー米国務長官らが広島に集った4年前の外相会合で昼食会場になった。

 いまや市内で最も歴史ある料亭は今年で創業120年を迎え、新型コロナウイルスという新たな逆境に立ち向かっている。夫篤司さんの遺志を継ぐ悦子さんは「原爆を乗り越えた先人の苦労を思えば、へこたれてはいられない。このまま守っていく」と前を向く。

(2020年12月7日朝刊掲載)

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