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[ヒロシマの空白 街並み再現] 旧猿楽町 生き生き 爆心直下 写真14枚見つかる

元住民が保存 非常に貴重

 原爆ドーム(広島市中区)を残して壊滅した爆心直下の旧猿楽町で、戦前に撮影された写真が相次ぎ計14枚見つかった。原爆資料館(同)によると猿楽町の写真は珍しく、特に相生通りの北側で撮られたカットはほとんど確認されていない。いずれも商店がひしめく街並みなどを生き生きと捉えている。(桑島美帆)

 路上にしゃがみ込んでほほ笑む子どもたち。現在は「メルパルク広島」の辺りで、1940年ごろ撮影された。持ち主は元住民の細野澄子さん(91)=西区。「とび職の細工さんの倉庫の前です。かくれんぼか何かをしよった時でしょう」

 実家の「松本電機商会」は、撮影場所の南斜め向かいにあり、父親の松本房之助さんがラジオの修理を手掛けていた。周りには、しょうゆ店や旅館、眼科などが並んでいた。「みんな仲が良く、にぎやかだった」。原爆により一瞬で破壊され、住民の多くが亡くなった。雑魚場町で建物疎開作業中だった房之助さんも犠牲になった。

 細野さんは動員先の舟入川口町で被爆した。アルバムは、親戚宅に預けていたため焼失を免れた。「猿楽町通り」で33年に撮影された防護団の記念写真や、旧広島市民球場跡地の辺りにあった広島護国神社での餅つきなどの写真も。原爆資料館の落葉裕信主任学芸員(43)は「爆心直下の戦前の暮らしが分かる非常に貴重な資料だ」と話す。

 中川太芽雄(ためお)さん(87)=廿日市市=の「猿楽町61番地」の自宅は、松本電機商会の3軒東隣。ちょうど、エディオン広島本店西館の辺りだ。そこで自動車修理工場「広島ボデー製作所」を営んでいた父輝義さん(2004年に92歳で死去)の遺品のアルバムに、40年の皇紀2600年の祝賀行列、米国製乗用車の前に立つ親子を撮ったモノクロ写真が残されていた。

 「頭の上からピカを落とされ、がれきの山になった街がみんなの努力で立派になった」と中川さん。細野さんは迷った末、写真を原爆資料館に寄贈することに決めた。「将来に引き継ぎたい。写真が何らかの役に立つのなら」。家族の思い出が詰まった一枚一枚が、原爆で消された古里の記憶を次世代に伝えていく。

(2021年1月1日朝刊掲載)

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