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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 豊後孝江さんー父と兄の死 体験語れず

豊後孝江さん(86)=広島市南区

全身やけど なすすべなく。ぽっかり心に穴

 1945年8月6日、住民約200人が広島市街での建物疎開作業に向かい、原爆で全滅した地域があります。広島県川内村(現広島市安佐南区)です。豊後(旧姓浜尾)孝江さん(86)は、国民義勇(ぎゆう)隊として動員された父を失い、自身も入市被爆しました。兄2人は原爆と戦争に命を奪(うば)われました。「忘れたい」とこれまで体験を語ってきませんでした。

 豊後さんは10歳で、川内国民学校(現川内小)5年でした。登校して教室にいると、窓辺の男子たちが「ビー(B29爆撃(ばくげき)機)じゃ」と騒(さわ)ぎます。間もなく黄色い光に包まれ、「ドーン」という音が響(ひび)きました。とっさに学校の北側にある田んぼへ逃げ、地面に伏(ふ)せました。

 2発目はなく、自分にけがはありません。その後、帰宅しました。家では、いつも気丈(きじょう)な母ヒメヨさんが、広島市内へ行った父端一(たんいち)さんと、兄秀幸さんの安否を心配していました。

 川内村には温井(ぬくい)と中調子(なかぢょうし)の2地区がありました。村の義勇隊は地区ごとに分かれており、8月6日は豊後さんの住む温井側が建物疎開(そかい)作業の日でした。父の年齢(ねんれい)は、上限ちょうどの60歳。今の平和記念公園南側の中島新町(現中区)に出動しました。

 端一さんが土蔵の下で休憩(きゅうけい)していた時に、原爆がさく裂しました。蔵の下敷(じ)きになりながら、はい出て生き埋(う)めの人たちを助けようとしました。しかし迫(せま)りくる火の手に押(お)され、やむなく離(はな)れました。江波町(現中区)に嫁いでいた姉の綾子さんの家に向かいましたが、やけどで顔が膨(ふく)れ、前が見えません。間違えて近所の家に入り、連れて来られました。

 姉は原爆の衝撃(しょうげき)で割れたガラス片が散らばる床に布団を敷き、父を寝(ね)かせました。「家に帰る」と言う父を漁船に乗せ、川をさかのぼろうとしました。しかし橋が落ちており前に進めず、引き返しました。翌7日朝、息を引き取りました。

 祇園町(現安佐南区)の三菱重工業に勤めた13歳上の兄秀幸さんも、小網町(現中区)へ勤労動員され被爆しました。横川駅まで逃げ、安否(あんぴ)の連絡(れんらく)を近くの人に託(たく)しました。6日深夜に知らせを受けて母と捜(さが)しに行き、全身やけどの兄を連れて帰りました。

 看病といっても、豊後さんには傷にわくウジ虫を取るぐらいしかできません。無念そうに手のやけどを見つめる兄の姿が脳裏に焼き付いています。27日に亡くなりました。それでも豊後さんは「父も兄も、家に戻ることはできた。申し訳ない気分だった」と振(ふ)り返ります。温井地区では遺体や遺骨も見つからないままの遺族が多かったのです。

 15歳上の兄穣さんが戦死した連絡も、戦後入りました。ビルマ(現ミャンマー)で部隊の退却(たいきゃく)中、頭を撃(う)たれたそうです。終戦の4日前の死でした。

 働き手を失い、ヒメヨさんは畑仕事に精を出しました。そのおかげで豊後さんは、広島女子短大(現県立広島大)へ。栄養士になり、高校教員の敬さんと結婚(けっこん)しました。広島文教女子大短期大学部で36年間教え、3男1女を育てました。その間、被爆証言はしていません。「ぽっかりと自分の心に穴があいた」体験だったからです。

 豊後さんは被爆75年だった昨年暮れ、川内村の犠牲(ぎせい)者を悼(いた)む「義勇隊の碑」を訪れました。「浜尾端一」の名も刻まれています。「お父さんが生きてくれていたら、教わることもまだあっただろうに」。父と兄2人がいた頃の家族のことを、今も思っています。(山本祐司)

私たち10代の感想

日常 当たり前じゃない

 豊後さんは戦後の暮らしを「母は苦労していただろう」と振り返りました。学費が必要な時、畑のゴボウを抜(ぬ)き、売ってお金にしてくれたそうです。そんな家庭で育ち「十分ではなかったが恵(めぐ)まれていた」と話します。今、自分は学校に毎日通い、平和に暮らせています。そんな生活は当たり前ではないと知る機会になりました。(中1森美涼)

複雑な感情 受け取った

 手の甲(こう)のやけどを悔(くや)しそうに見つめる兄。豊後さんは一生懸命(いっしょうけんめい)看病(かんびょう)しようにも包帯さえなく、ただ見守るしかありませんでした。その光景を話す姿から、私は豊後さんの悲しみや原爆への怒(いか)りなど複雑な感情を受け取りました。被爆者は思い出したくない経験を、私たちのために語ってくれています。しっかり受け継ぎたいです。(中2畠山陽菜子)

(2021年1月12日朝刊掲載)

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