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連載・特集

[ヒロシマの空白 街並み再現] 流川・薬研堀 盛り場の絆

 広島市中区の流川・薬研堀周辺は戦前、盛り場や商店、遊郭が並ぶにぎやかな一角だった。原爆で焼け野原となった後、復興が進む中でネオン街へと変貌した。ゆかりの人から寄せられた写真を通し、街の記憶をたどる。(桑島美帆)

 普段は昼間でも往来がある薬研堀地区だが、新型コロナウイルス禍の今はひっそりしていた。「ここにおやじがいたんですね。全く想像できないなあ」。今月初旬、木村潤造さん(76)=廿日市市=は、芸妓(げいぎ)と料亭の仲立ちをする「東券番」の跡地を初めて訪れた。父・潤一さんが営んでいた。

 1945年8月6日に被爆死した父のなりわいを知ったのは、6年ほど前。親戚から譲り受けた遺品のアルバムがきっかけだった。

 古びた写真には34年2月に開かれた皇太子(現上皇さま)の生誕を祝う行事に参列する父の姿や、華やかな着物をまとった芸妓たちが写る。1歳で死別した父の生きた世界がそこにはあった。以来、関連資料を収集し、写真と戦前の地図を照らし合わせながら、父の面影を追っている。

 広島原爆戦災誌に、潤一さんの名を見つけた。「芸者一九〇人、舞妓(まいこ)一〇人ばかりいた」ことや、戦争中は券番が「ミシン機械を入れて、軍需下請工場」になったことも記されていた。潤一さんの遺品の中から、東券番が営業していたとみられる16~43年に登録された芸妓109人の写真入り名簿が見つかった。東券番があった場所も最近知った。

 広島市郷土資料館(南区)によると、日清戦争(1894~95年)の軍需景気を受けて旧下柳町一帯に東遊郭ができ、次いで東券番が置かれた。1921年以降、近くに新天地広場(現新天地公園)が開かれ、劇場やカフェなどが軒を連ねた。現在の「流川通り」に面した旧下流川町で米店を営んでいた故清水為吉さんの遺族が保管する写真にも、同じころ撮影された街並みが映る。

 新天地広場での演芸会や、流川通りの祝賀行列には、芸妓や大勢の子どもたちの姿も見え、地域の絆が伝わってくる。しかし、爆心地から1キロ圏の一帯は焼き尽くされた。

 郷土資料館の本田美和子学芸員は「政治や経済と異なり、風俗については被爆前の公的記録がほとんど残っていない。当時の生活や娯楽など、これらの写真から知ることは多い」と話す。

(2021年1月18日朝刊掲載)

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