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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

平和・福祉 村議時代から

 元廿日市市長の山下三郎さん(91)は議員時代を含め、地方自治に50年近く携わった。高度成長期の昭和から平成の時代を駆け抜け、被爆市長として核兵器廃絶運動にも取り組んだ。市長を退いて13年余り。卒寿を過ぎ、住民との歩みを振り返った。

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 宮内村(現廿日市市)で農業をしていた私が村議になったのは1955年、25歳の時です。村長に立候補を勧められたのがきっかけでした。それ以来、合併後の廿日市町議・市議と議員を10期33年務め、市長として4期16年、まちづくりに当たりました。

 在任中、特に意識したのは住民の平和と福祉です。これは旧制の中学生だった時の学徒動員や被爆した戦争体験が根底にある。学生たちを労働力に使った揚げ句、街が焼け野原となり、多くの人が亡くなっていくのを目の当たりにしました。平和であってこそのまちづくり、弱い立場の住民に寄り添う行政を心掛けた。

 町議時代は核兵器廃絶や平和主義などの政策に賛同し、社会党(現社民党)に入って活動した。革新系の首長が進める先進的な福祉政策に学んだ。廿日市市は広島市のベッドタウンとして人口が増え、都市基盤整備に追われて財政は厳しかったが、住民の福祉向上には力を入れて取り組んだ。

 市長の時も学校や集会などで被爆体験を証言した。核兵器を地球からなくすため、あの惨禍を次世代に伝えるのは原爆で生き残った者の使命です。米軍岩国基地(岩国市)の増強計画が浮上した時には国に撤回を求めた。核兵器廃止や基地問題は国の専管事項で、自治体の取り組みに限界はあるかもしれない。しかし、住民の安心・安全が脅かされそうな時、声を上げるのが当然ではないでしょうか。

 市長に就くまでに、農業のほか広島県職員や衆院議員秘書、会社社長など多くの職業を経験した。政治家としては社会党への所属や離党、選挙での落選も経験した。人生で選択を迫られる機会が多く、これが糧となりました。決断と実行。これをモットーに行政運営に当たりました。(この連載は編集委員・岩崎秀史が担当します)

(2021年1月19日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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