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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

「お国のために」耐える

  ≪1942年、旧制山陽中(現山陽高)に入学した≫

 養父母は教育熱心で、一人息子の私を中学に進学させてくれました。広島二中(現観音高)も受験したが不合格。山陽中は当時、広島市宝町(現中区)にあり、宮内村(現廿日市市)の自宅から通った。広島電鉄の宮島線に乗り、己斐(現西区)からは歩いて行った。

 ≪入学する前年の12月、太平洋戦争が始まった≫

 戦時体制で風紀は厳しく、先輩に会うと敬礼していた。軍事教練もあり、鉄砲の構え方やほふく前進などの訓練を陸軍の教官から受けた。校内は軍人が巡回し、まるで軍隊のような雰囲気。それでも1年生の頃はまだ、毎日授業を受けることができた。

 2年生になると、戦争で家人が留守の家を手伝うようになった。川内(現安佐南区)や可部(現安佐北区)の農家に泊まり込み、稲刈りをした。台風シーズンには太田川の災害復旧に当たった。軍需工場で作業をする日もあった。

 ≪戦局は敗戦の色が濃くなり、労働力不足を補うため、44年から学徒勤労に動員される≫

 3年生の6月から、観音(現西区)の三菱重工広島機械製作所で作業をした。朝は5時半に自宅を出て、7時半に作業を開始。午後5時半まで働いた。戦況の悪化で物資が不足し、履けなくなった靴の代わりにおやじの地下足袋を借りて通っていた。

 動員が始まって初めの2カ月は海を埋め立てた工場用地の整地を担当し、その後はボイラーなど船の機械を造る工場で働いた。旋盤を扱って部品を作ったり、物資を運ぶクレーンを操作したり。機器の扱いは繊細な操作が求められ、厳しい指導を受けながら緊張のし通し。しかも、休みは月に2日しかなかった。

 毎日がきつかったが、それでも「お国のために」と耐えていた。幼い頃から将来の夢は、将校になること。日本が戦争に負けるとは思わず、「いつ死んでもいい」と考えていた。今になって思えば、教育とは恐ろしいものです。そんな思いは、工場に通い出して1年2カ月後に吹き飛びました。

(2021年1月21日朝刊掲載)

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『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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