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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 縫部正康さんー弟の弁当箱 近くに遺体

縫部正康(ぬいべ・のぶやす)さん(91)=広島市安芸区

行き渋った朝 最初で最後のわがまま

 縫部正康さん(91)は、3歳違(ちが)いの弟寿彦さんを原爆で失いました。原爆が落とされて2日後、本川橋(広島市中区)そばで亡くなっているのを見つけました。「突然(とつぜん)奪(うば)われた命の供養(くよう)に」と、弟との思い出や最期の姿を少しずつ紙に書き続けています。

 県立広島工業学校(現県立広島工業高)電気科の3年生と1年生でした。縫部さんは当時15歳。6人きょうだいで、2人は年齢(ねんれい)が近く、口げんかもよくしたそうです。

 1945年の8月6日早朝、母タキノさんが弟の弁当をこしらえていると、寿彦さんは「学校に行きたくない」とごね始めました。学徒動員で建物疎開(たてものそかい)の作業に出ることになっていました。「日本男児がそんなことではいけません」。タキノさんが叱(しか)ると、不機嫌(ふきげん)そうに出掛(でか)けていきました。思えば弟のわがままを耳にしたのは、あれが最初で最後でした。

 縫部さんは、学徒動員先だった南観音町(現西区)の三菱重工広島機械製作所に向かいました。同級生たちと集まった直後、外がピカッと光り、とっさに机の下に逃げ込みました。爆心地から約3キロ。周囲が静かになり、外に出ると空にきのこ雲が立ちのぼっていました。

 けがはなく、坂町の自宅を目指しました。周囲は大変な状況です。倒壊(とうかい)した家屋の軒下(のきした)から「助けて」と声が聞こえます。迫(せま)り来る火に、なすすべもありません。どうにか自宅にたどり着きましたが、弟は帰っていませんでした。

 翌日、縫部さんは一人で自宅から千田町(現中区)にあった県工の校舎へ行き、1年生の作業場所が中島新町だったと聞きました。一帯に向かうと、横たわる遺体の数が急に多くなっていくのが分かりました。

 本川橋に差し掛かった時のことです。近くの土手に弁当箱が集めて置かれているのが目に付きました。一番上に、見覚えのあるアルミ製の弁当箱が。そっと開けると、おかずが手つかずで残っていました。

 次の日、両親とその辺りで弟を捜しました。「わしの子じゃー」。突然、母親が叫(さけ)びました。兵隊がとび口という道具で遺体(いたい)を引っかけ、階段のようになった川の護岸(ごがん)「雁木(がんぎ)」から引き揚(あ)げていた中に寿彦さんがいたのです。髪や服は熱線で焼かれ、顔は膨(ふく)れ上がっています。面影(おもかげ)はなく、弟だと思えませんでした。

 父親と縫部さんで体を抱(だ)きかかえると、焼け残った膝(ひざ)のゲートルに「縫部寿」の文字が見えました。涙(なみだ)が止まりませんでした。その場で火葬(かそう)してもらい、遺骨(いこつ)を持ち帰りました。あの日、建物疎開作業をしていた県工の1年生は、寿彦さんを含めて192人が犠牲(ぎせい)になりました。

 戦後、タキノさんは食器棚(しょっきだな)に寿彦さんの写真を置き、家族と同じ食事を毎日3食供えました。「無理に建物疎開作業に行かせたことに、後悔(こうかい)の念があったのかもしれません」

 縫部さんは県工を卒業後、49年に中国電気通信局(現NTT西日本)に就職。29歳で結婚し、2人の子どもを育てました。約40年間、技術者として線路や土木の工事を担(にな)いました。特に会社員生活を終えた65歳から、弟を思い出すことが増えていきました。

 「生きた証しを残してあげたい」。手記を書き、原爆資料館などに寄贈(きぞう)しました。自宅でも大切に保管しています。「いつか孫やひ孫たちが読んで、核兵器の恐ろしさを理解してほしい」と願っています。(新山京子)

私たち10代の感想

正しい情報 共有が大切

 縫部さんは、毎年8月6日に被爆体験を書いています。「何十年、何百年後、誰かに読んでもらって原爆の怖さを分かってほしい」と願っていました。原爆の被害について知らないことで、被爆者に差別をする人もいるといいます。平和学習などで学んできた知識を多くの人と共有して、正しい情報を伝えることが大切だと思いました。(高1桂一葉)

最期の姿 悲惨さ衝撃

 「遺体を見ても弟だと思えなかった」と聞き、被爆して家族でさえ分からないほどの状態になっていた悲惨さに衝撃(しょうげき)を受けました。「核保有国が核兵器廃絶に向かうよう若者が行動してほしい」という言葉に、戦争の無意味さ、当たり前な日常や平和の大切さを日本だけでなく国境を越えて発信していく必要があると感じました。(中3三木あおい)

(2021年2月1日朝刊掲載)

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