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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

被爆体験証言 私の使命

  ≪2000年、日本非核宣言自治体協議会の副会長に就く≫

 長崎市で毎年開かれる協議会の大会に参加するようになり、会長の伊藤一長・長崎市長と交友が始まりました。自民党県議から就任した時は長崎の平和行政がどうなるか心配もしたが、被爆者の思いを背負って反核運動に懸命な方でした。

 伊藤市長から「一緒にニューヨークへ行きませんか」と呼び掛けられたのは04年です。翌年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に参加して被爆体験を語ってほしいとお願いされ、参加を即答しました。

 ≪05年5月、米ニューヨークで開かれた平和市長会議(現平和首長会議)の代表団会議で、各国・地域から集まった約130人の市長を前に被爆体験を証言する≫

 学徒動員中の被爆や廃虚と化した町の様子を海外で話すのは初めてでした。次世代に惨禍を伝えることが当時75歳の私の使命と訴え、焼け野原ではなく美しい地球を残そうと呼び掛けた。通訳を交えて15分ほどのスピーチだったが、終えると市長たちが総立ちで拍手を送ってくれました。海外で被爆者の思いを共有してもらい、私も感激した。

 核兵器廃絶を訴えるデモ行進にも参加し、被爆者の市長と紹介されて各国の市長たちと行進した。訪米は思い出深い経験だったが、米国の現実にも直面した。米国人と話していると「原爆投下は戦争を早く終結させるため」と罪悪感をまったく持たない人も多くいた。そういう誤った考えを持つ人がいるとは知っていたが、実際に会うとショックだった。原爆の惨禍がまだまだ知られていないと、力不足を感じた。

 ≪NPT再検討会議は中東非核化などを巡って参加国の意見が対立し、包括合意文書を採択できなかった≫

 核兵器廃絶への道筋が付かず、残念で仕方なかった。高齢化する被爆者に残された時間は少ないが、核廃絶を訴え続けていこうと意を強くした。

 訪米の2年後、さらに悲しい知らせが届きました。伊藤市長が選挙中、凶弾に倒れたのです。核廃絶運動にとって大きな損失であり、沈痛な思いでした。長崎市による市民葬に参列し、冥福を祈りました。

(2021年2月5日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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