×

連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

広大な市域 責任も重大

  ≪2000年、広島県が市町村の合併パターンを示し、「平成の大合併」協議が動きだす≫

 廿日市市はコンパクトな町で行政効率はよかったが、少子高齢化で財政が厳しくなる将来、県西部地域が一体的に発展するには合併が必要と考えていました。合併パターンで示された県西部2市5町村の枠組みで話し合いを呼び掛けたが、すぐには進まなかった。先に合併の申し入れがあった佐伯町、吉和村との協議を優先することにしました。

 ≪03年3月、廿日市市は佐伯町、吉和村と合併。同月、大野町と宮島町から合併協議の申し入れがあった≫

 私は世界遺産の島のネームバリューを生かした「宮島市」を提唱したことがあるほど、宮島町との合併を望んでいた。ところが、申し入れ後の宮島町長選で広島市との合併を訴えた候補が当選し、協議に入れなくなりました。廿日市市との合併を主張する宮島町議会の多数派と情報交換しながら、大野町との合併協議を先に進めることにしました。

 宮島町は住民投票で合併先を決めることになりました。廿日市市が多数となり、町長から再び合併協議の申し入れがあったのは04年8月。優遇措置を受けられる合併特例法の期限まで残り7カ月しかありませんでしたが、期限内に合併調印にこぎ着けました。

 ≪05年11月、廿日市市と大野、宮島町が合併。現在の市域となった≫

 スキー場から海水浴場まである広大な市域になり、責任も重くなった。議員時代に経験した「昭和の大合併」では町の一体感を築く大切さを痛感していたので、新市域に配慮した。無医村だった吉和地域に診療所を設け、循環バスを走らせた。日本三景の宮島のPRに松島、天橋立の地元自治体に呼び掛け「日本三景の日」を定めたりもした。

 だが振り返ってみると、平成の大合併とは何だったのだろうか。地方分権の受け皿づくりが目的だったが、国から権限や税源の移譲はほとんど進んでいない。自治体は何のため合併に苦心したのかと思います。

 合併問題は責任を持ってやると決めて、市長4期目に臨みました。合併を終えてからですね、退任を考えだしたのは。

(2021年2月9日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

年別アーカイブ