×

ニュース

街は遺体ばかり 長崎で再び地獄 故相川さん「原爆の絵」 姉が語る二重被爆

臭いや足裏の感触 震え今も

 青森市に住む福井絹代さん(90)は「被爆の場所」が二つある。被爆者健康手帳には「広島市千田町二丁目」「長崎市本尾町入市者」と記載されている。亡き弟、相川国義さんは1945年8月6日と9日に絹代さんと体験した二重被爆を「原爆の絵」に描き65枚を2002年に広島市の原爆資料館へ寄贈していた。想像を絶する世界を姉の証言とともに探り、被爆後の半生を聞いた。(西本雅実)

 「よく覚えて描いたもんだなあと思います」。資料館の協力で65枚の画像を印刷して送ると、電話口で快く答えた。「雪で出られず時間はあります」と笑い声も上げた。1人暮らしだという自室で、広島と長崎の二重被爆を語った。

 広島

 史上初の原爆のさく裂は、洗濯物を庭で干し家に上がったところ。気が付けば、がれきに埋まり弟に掘り出された。家は中区の現広島赤十字・原爆病院近くにあった。1人親の父は召集されていた。通りに出てきた近隣住民は、「私らを含めて6人くらい」。顔見知りの女性に付いて逃げた。火炎が衰えて自宅跡へ戻るうちに弟との2人となり、平野町にあった文理科大プールそばで野宿する。

 翌7日、広島市沖合の似島に避難すると救護に動員された。収容者は見分けがつかないほど焼かれ、べそをかきながら手伝った。父を広島での仕事に誘った、長崎出身の伯父一家が南観音町(西区)にいたが、「どうなっているか分からない。長崎へ帰るしかなかった」。姉の決断に弟は従う。14歳と12歳だった。

 8日、遺体を兵隊が集めて焼く八丁堀を抜けて駅を目指す。「川はとにかく死体でいっぱい。私は泳げないのですくんでしまい、弟が渡るのを助けてくれた」。国義さんの「絵」は、京橋川に架かる稲荷町電車専用橋とみられる橋を描き、「両足を焼け残った枕木に乗せ」て進み、広島駅に着いたと記している。

 「広島鉄道管理部戦災記録」などを、国鉄労組・国労原爆被爆者対策協議会の「この怒りを」(78年刊)が収録する。「八日本線開通」し、広島駅は下り線午後3時30分、第33列車を初列車として「軍公務者、罹災(りさい)者及復旧要員」らを乗せた。8日の本線下りの運転は3本とある。

 長崎

 姉弟は広島を出発して、空腹を桃で潤した。深夜に降りた駅で近隣の中年女性にもらったことを弟は「絵」にしている。「本当にうれしかった」と言う姉は門司港と記憶する。45年7月の時刻表(国会図書館所蔵)と照らすと、第33列車は広島から門司港までは7時間7分かかった。長崎線へと向かう門司港始発は午前6時30分とある。

 原爆に再び遭った9日を描いた4枚は、長崎方面から近づいた列車が負傷者で満載だった「絵」に始まる。姉弟が乗っていた列車は長崎駅の2駅北、道ノ尾の手前で止まる。そこから歩いて祖母が住む市内金屋町へ向かった体験を描く。

 絹代さんは、記憶を解き放つかのような口調で話した。「人だと思ったら死体ばかり。今度は弟が怖がってしまって、なだめたりしかったりして歩き続けました。あの臭い、足の裏の感触を思い出すと幾つになっても震えがきます」

 手帳記載の「本尾町」は浦上天主堂が無残に破壊された場所でもある。必死の思いでたどり着いた金屋町方面は炎に覆われ、姉弟はまた歩くしかなかった。

 二重被爆後

 戦後、絹代さんは東京に出て、青森出身の男性と結婚。1男1女の家族4人で夫の郷里に移り住む。入院しても手帳の存在は知らなかった。広島の直接被爆で取得したのは65年だった。

 「こちらは被爆者が少ないので、どうしても変な目で見られて…」。亡き夫や子どもにも被爆の内実は口にしなかった。気やすく話せるのは、東京で働き晩年は長崎に1人戻った国義さんとの電話に限られた。

 それが被爆70年の15年、介護福祉士の辻村泰子さん(63)との出会いから二重被爆の詳細を明かした。青森県原爆被害者の会の事務局を進んで長年担う辻村さんは、絹代さんの願いを受けて支援者と奔走する。県内の手帳所持者は現在42人。

 国義さんは91年に広島被爆で手帳を取得していた。17年に84歳で亡くなると、長崎市の原爆死没者名簿に登載し、両地の国立原爆死没者追悼平和祈念館には名前・遺影を登録した。

 そして、絹代さんの二重被爆は青森県が19年7月16日付で認め、長崎被爆を手帳に追加記載した。広島は60年代後半に1度訪ねたが、原爆資料館へは「入る勇気はなかった」という。再訪できれば、今度は弟の「絵」を手にするつもりだ。

(2021年2月22日朝刊掲載)

二重被爆伝える「原爆の絵」 広島の資料館 所蔵5000枚で唯一

年別アーカイブ