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子奪われた親 無念さ遺品で 26日から原爆資料館で展示

被爆死した次男のパンツ/毎日水を入れ仏壇に供えたコップ

 原爆で2歳だった次男の太尾田洋夫ちゃんを奪われた母親のれんさん(2009年に94歳で死去)の遺品が、原爆資料館(広島市中区)に寄せられた。水を求めながら息を引き取った我が子を悼み、毎日仏壇に水を供えるのに使っていたガラスのコップ。資料館は26日に始める新着資料展で、所蔵している洋夫ちゃんの遺品のパンツと初めて一緒に展示し、原爆で子どもを亡くした親の思いを伝える。(水川恭輔)

 れんさんは1945年8月6日、呉市の病院に入院していた夫を見舞いに行った帰り、千田町(現中区)の自宅に戻るため、洋夫ちゃんをおんぶして広島駅(現南区)で市内電車に乗り換えようとしている時に被爆した。爆心地から約1・9キロ。背後から熱線を浴び、母子ともにひどいやけどを負った。

 普段はぐずったり、泣いたりすることがほとんどなかったという洋夫ちゃんだったが、運ばれた救護所では衰弱するにつれ、か細い声で母にねだった。「水がほしい」「水がほしい」…。しかし、水を飲ませたら死ぬと聞いていたれんさんは与えることができなかった。洋夫ちゃんは6日の夜、亡くなった。

 「生涯、後悔の念を残していた。最後に水を飲ませてあげたら良かった、と」。長女の長谷部松子さん(82)=京都府宇治市=は母の胸の内を打ち明ける。れんさんは、水をくんで千田町の自宅の仏壇に供える日課を欠かさなかった。「えらい子じゃった」と我が子をしのび、90歳を超えても「心に残り、苦しい」とこぼしていた。

 れんさんは血で染まった洋夫ちゃんのパンツも手元に残し、05年に資料館へ寄贈した。本館がリニューアルした19年4月から常設展示され、洋夫ちゃんの被爆死が広く知られるようになる中、長谷部さんは戦後の母の思いを知ってもらおうと同年8月にコップを届けた。れんさんが孫から贈られたもので、亡くなるまで15年近く使っていた。

 戦後に家族の思いを刻んだものを、被爆直後の犠牲者の遺品と一緒に展示するのは珍しいという。被爆者の高齢化で、子どもを亡くした親世代の思いをどう伝えるかは課題の一つとなっており、資料館は「パンツとコップを一緒に見て、残された親の気持ちを感じてほしい」としている。

(2021年3月23日朝刊掲載)

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