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[ヒロシマの空白] 被爆すずりに名 和典さんどこに 原爆ドーム保存工事で67年発見

現場責任者の長女 手掛かり探す

 「和典」―。裏面に持ち主の名前が残っていながら、本人の消息が分からない被爆すずりが原爆資料館(広島市中区)に所蔵されている。原爆ドーム(同)で1967年にあった第1回保存工事で見つかり、工事の現場責任者だった故二口正次郎さんが2004年に寄せた。「原爆の犠牲者のものならば、大切な遺品として遺族に知らせたい」。長女のとみゑさん(71)=佐伯区=は「和典」さんの情報を探し続けている。(水川恭輔)

 資料館によると、すずりは縦8センチ、横4センチ。第1回工事で、ドーム敷地内のがれきの中から見つかった。爆心地から約160メートル。表面に熱で溶けたガラスのような付着物があるほか、ひび割れている部分もある。

 「和典」の文字は裏面の左下に彫られている。資料館はその上の文字は「松」で、名字の一部とみているが、さらに上にあった可能性のある1、2文字は欠けてしまっているという。

 二口さんは04年、自宅で保管していたすずりを被爆資料として資料館に寄贈した。寄贈に同行したとみゑさんは「本当は『和典』さんのもの。ゆかりの人に手に取ってほしい」との思いを抱き続けている。会員制交流サイト(SNS)ですずりを紹介するなどして情報を募ってきたが、手掛かりは得られていない。

奨励館に勤務か

 資料館は、すずりは小型のため、ドームが広島県産業奨励館だった戦時中、館内に勤めていた人が小筆で文書を記すのに使っていたのではないかとみている。館内には被爆当時、主に旧内務省と県の土木関係の部署、県警察部保険課、統制会社の県地方木材をはじめとする木材3社の事務所があった。

 奨励館の原爆被害について、市編さんの「広島原爆戦災誌」は、投下直前に当直明けで帰宅した人の証言を基に館内にいた「30人ばかり」が全員即死したと記す。ただ、正確な人数や一人一人の名前は不明だ。

 内務省と県関係の犠牲者の名簿は各戦災誌にあるが、名前が和典の人は見当たらない。資料館によると木材3社は同様の名簿が確認されておらず、犠牲者に「和典」さんが含まれるかどうか分からないという。

関連見つからず

 奨励館におらず助かった可能性も残る。記者は、遺族が登録した死没者名や所蔵する被爆手記を調べられる国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)のデータベースで検索。戦後の死没者や手記執筆者を含めて和典という名前の人を5人見つけ、被爆場所や当時の所属を調べたが、関連がありそうな人はいなかった。

 「和典」さんは、公的記録にない奨励館の犠牲者なのか、館外で助かって戦後を生き抜いたのか、それとも―。とみゑさんは、ドームの歴史の「空白」を埋める上でも「諦めずに手掛かりを探したい」と話す。協力している資料館も情報を募っている。資料館☎082(241)4004。

原爆ドーム

 1915年に広島県物産陳列館として完成し、33年に県産業奨励館に改称。45年の米軍の原爆投下で大破した。広島市は67年に最初の保存工事をし、96年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された。昨年9月に始めた5回目の保存工事では、頂上部の鋼材を被爆当時に近い焦げ茶色に塗り直すなどし、今年3月に現場作業を終えた。

(2021年4月3日朝刊掲載)

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