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連載・特集

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <上> 戦時下の女性記者

原爆報道の原点担う

異常知り自力で入市

 1945年8月6日の原爆投下で広島は情報機能も壊滅的な打撃を受けた。県内で唯一出ていた中国新聞は本社が全焼し、犠牲者は114人に上る。生き残った記者たちは「口伝隊(くでんたい)」として肉声で被災情報を伝えて回った。ヒロシマからの原爆報道の始まりである。

 口伝隊について、原爆体験者が健在だった56年発行の「中国新聞六十五年史」は、中国軍管区司令部の要請で壊滅の翌日に編成とする。「ペンと紙ならぬメガホンを片手に声をからし、トラック上からニュースを流した口伝隊員は…」と男性社員3人の名前に続いて「八島ナツヱ」と記す。

 口伝隊の女性記者とみられる写真が、朝日新聞西部本社版45年8月10日付に載っていた。広島市内で撮影という写真には、「優しい声で戦災者を励ます女子報道班員」の説明が付く。福岡県小倉市(現北九州市)から取材陣が入っていた。

45年 整理部所属

 男性3人は当時の編集局次長、報道部次長、調査部員だった。八島ナツヱさんは、本社に復帰して同年11月5日付から自力発行を再開した翌12月の「辞令原簿」に「任準社員 整理部」とある。しかし、入・退社の記録は全く残っていない。

 どんな人物なのか、未曽有の事態にどう立ち向かったのか―。八島姓から広島のめい家族を訪ね当て、長男の山田大乗さん(66)が今は東京都在住と分かった。

 「口伝隊という言葉は初めて聞きました」と言い、母が78年に被爆者健康手帳を兵庫県で取得した際の交付申請書の開示に協力してくれた。大乗さんの誕生前は京都新聞社にもいたという。照会すると入社に際しての履歴が残っていた。

 被爆時は27歳だった。広島市平塚町(現中区西平塚町)の出身で県立広島高等女学校(県女、現皆実高)を卒業。国民徴用令の強化に続き日米開戦に至った41年、宇品港そばの陸軍運輸部に勤務し、44年からは中国新聞社とある。社は軍需工場と同じ「重要会社」に位置づけられていた。

 八島さんの手記は8月6日夜、広島に異常事態との情報を聞き、加計町(現安芸太田町)からの救援トラックに「無理にお願いして」便乗したという。休暇を取り三段峡入り口の友人宅を前日から訪れていた。

 山県郡内の広島地区第12特設警備隊長の手記(76年発行の「原爆下の司令部」収録)によると、高齢男性たち約250人が7日午前0時に加計国民学校に集合し、分乗したトラックが横川町(現西区)に入ったのは夜明けの5時ごろ。

 その行程を八島さんは自力で向かった。飯室村(現安佐北区)で降ろされると川舟を見つけて可部町(同)へ。そこから先は歩き、横川鉄橋辺りに着いたのは午後1時ごろだった。

「みな放心状態」

 「死体がごろごろしているありさまに疲れなど自覚する余地もなく、ひたすら中国新聞社を目標に歩いた」。爆心地から東に約900メートル。上流川町(現中区胡町)にあった社では、「誰も彼も放心状態で、まともに生きていることを喜びあったのは広瀬さん…」とつづる。広瀬実枝子さん=当時(36)=は43年に入社した県女の先輩。「編集局整理部勤務」と八島さんの被爆証明書に記していた。(西本雅実)

(2021年4月5日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白] 壊滅直後に「声の新聞」 「口伝隊」の元本紙記者八島ナツヱさん 被爆33年後に手記

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <中> 報道戦士

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <下> 被爆記者

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