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遺品 無言の証人

[無言の証人] バックルと焦げた名札

息子の証し これだけ

 当時13歳で山陽中(現山陽高、広島市西区)1年だった島田孝さんは、原爆で全身に大やけどを負い、広島湾の似島へ運ばれた。母マツヨさんが駆け付けた時はすでに亡くなり、遺体は焼かれていた。遺品として残されていたベルトのバックルと焦げた名札を受け取るしかなかった。

 1945年8月6日、家族は、福岡市からマツヨさんの実家のある広島県井口村(現西区)へ移ってきたばかりだった。孝さんは、雑魚場町(現中区)であった建物疎開作業に向かう途中に被爆。爆心地から約500メートル離れた白神社の近くだった。

 マツヨさんは帰らない息子を捜し歩いた。9日ごろ、似島へ渡り、死亡者名簿に名前を見つけた。後日、救護所で孝さんと一緒だったという女性が訪ねてきて、息子の最期について教えてくれた。やけどで背中から腕にかけての皮がむけ、「水」「水」と叫んでいたこと。翌7日、静かになったと思ったら息がなかったこと―。

 仏壇に大切にしまった形見を79年、マツヨさんは原爆資料館に寄贈した。「こんな悲しみをもう(誰にも)味わってもらいたくない」。当時の本紙取材にそう語った。(山本祐司)

(2021年4月5日朝刊掲載)

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