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[ヒロシマの空白] 壊滅直後に「声の新聞」 「口伝隊」の元本紙記者八島ナツヱさん 被爆33年後に手記

 原爆による壊滅直後の広島で被災情報を知らせて回った「口伝隊(くでんたい)」の一員だった女性記者の詳細が判明した。中国新聞社整理部にいた八島ナツヱさん(2006年に87歳で死去)という。自らは「声の新聞」と表したその行動を33年後、手記に書いて被爆者健康手帳の交付申請で居住先の兵庫県へ出していた。長男の協力で開示を得た。口伝隊を巡り、14万7千余編を収める国立広島原爆死没者追悼平和祈念館でも関連する手記は見つかっていない。(西本雅実)

 1945年8月6日、八島さんは広島県戸河内町の三段峡入り口(現安芸太田町)の友人宅にいて「夜八時頃(ごろ)/広島に異常事態」と聞き、救援に向かうトラックや川舟に便乗するなどして市内を目指した。

 横川町(現西区)に入ったのは7日午後1時ごろ。廃虚に立つ鉄筋7階建ての新聞社を目標に歩き、近くの平塚町(現中区西平塚町)へ。母姉たちと暮らしていた。「家の周辺、ご近所には死体がなかった。『母は生きている』と確信し、やっと勇気がでてきて/(社へ)ひき返した」という。

 そして「生き残りの人達(たち)で『紙がないから、声の新聞を出そう』」と取り組んだ。「ニュースを集め、トラックに分乗して/伝えた。終戦の日までこの活動をつづけた」。急性放射線障害に襲われた症状も便箋7枚に書き、78年の手帳交付申請書に付けていた。

 口伝隊は、戦時下の軍官民一体と未曽有の事態から編成。当時の高野源進知事が内務省や現東区に置かれた第二総軍などへ宛てた報告書(45年8月21日付)は、「医療救護」「屍体(したい)ノ処置」などとともに「報道班ヲ動員シ口伝報道」を直後の対策措置として挙げていた。

 本社が全焼した中国新聞は、朝日新聞、毎日新聞の両西部本社(現北九州市)による代替印刷で広島壊滅3日後の8月9日付で再開する。しかし、救護や食糧配給など被災者にとって必須の情報は欠けていた。それらを補い報じたのが口伝隊である。

 「中国新聞六十五年史」(56年刊)は、「メガホンを片手に声をからし」た口伝隊員は「四社員」として男性3人と女性1人の名前を挙げている。その「八島ナツヱ」さんは、入・退社年の記録は残っておらず年齢も不明だった。

 被爆から76年。彼女の軌跡を追うと、未曽有の事態に直面した記者の行動にとどまらず、今日に続く「原爆報道」がどう始まったのかが浮かび上がる。本日付からの連載でさらに伝える。

原爆直後の報道
 大本営は広島壊滅の翌1945年8月7日午後3時半に「新型爆弾」と発表し、新聞各紙は8日付1面トップで扱う。報道統制の下、「原子爆弾」の言葉は11日付で一部の新聞に登場。終戦の15日を機に壊滅の様子を報じる記事や写真が次々と載る。中国新聞は9日付から朝日新聞、毎日新聞の代替紙面で再開し、口伝隊は福岡県から入った朝日記者も参加した。

(2021年4月5日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <上> 戦時下の女性記者

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <中> 報道戦士

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <下> 被爆記者

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