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福山城天守の鉄板か 防御弱い北側壁面 2枚初確認 市民が保管

 1945年の福山空襲で焼失した福山城(福山市丸之内)の天守の鉄板張りの一部とみられる鉄板2枚が現存していることが5日、分かった。福山市内の民家に保管されており、関係者が市に寄贈した。福山城の天守は防御の弱い北側を守るため全国の城で唯一、鉄板張りだったといわれるが、天守の焼失とともに鉄板の現物は残っていないとされていた。

 鉄板は幅7・5~11・3センチ、長さ25・1~25・4センチ、厚さ1・5~2・8ミリ。2枚とも全体がねじ曲がるなどし、表面に高熱の跡がみられる。数カ所にびょうの穴があり、びょうも一部残る。

 市などによると、鉄板は福山城の天守北側の最上階を除く壁一面に張られていた。北側は堀がなく城外が近いため、砲撃から守ろうとしたとされる。総重量は推定で約6トン。張られた具体的な年は不明だが、市は古文書から1622年の築城直後か98年までの水野家が藩主の時代とみている。今後、鉄の産地や精製時期を科学分析で調べる予定。

 市は来年の福山城の築城400年に向け、「唯一無二」の城をPRするため、1966年の再建時には省いた天守の鉄板張りの再現を計画。クラウドファンディング(CF)で事業費の一部を募っている。CFを知った市民から自宅に鉄板があるとの情報が3月に寄せられ、市は専門家の分析などから本物である可能性が高いと判断した。

 関係者によると、鉄板は福山空襲で天守が焼け落ちた後に瓦と共に持ち帰られたとみられる。瓦には「焼失」「福山城瓦 米国焼夷(しょうい)弾」などと記してある。(門戸隆彦)

城郭史の一級資料  広島大の三浦正幸名誉教授(城郭建築)の話 鉄板を写真で見たが、寸法や仕様が天守に施されたものと酷似し、天守の瓦と一緒に保管されていたことも含めて本物とみて間違いない。当時の鉄は貴重であり、焼け落ちた後の鉄板は売られるなどして現存していないとみられていた。天守の鉄板張りは他の城には見られず、日本の城郭史を語る上でも第一級の資料だ。

福山城
 安芸、備後両国を治めた福島正則の改易に伴い、福山藩の初代藩主になった水野勝成が1622年に築いた。築城と共に城下町がつくられ、現在の福山の礎となった。天守は1966年の再建後は博物館として利用している。空襲での焼失を免れた伏見櫓(やぐら)や筋鉄(すじがね)御門は国の重要文化財。

(2021年4月6日朝刊掲載)

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