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社説・コラム

ヒロシマと世界: 被爆者の知恵

■ロバート・リフトン氏  精神医学者(米国)

リフトン氏 プロフィル
 1926年5月、ニューヨーク市生まれ。62年4月から半年間広島に滞在し、原爆がもたらした被爆者への精神的・心理的影響を分析した「死の内の生命」(原著・1967年刊)を著す。ニューヨーク市立大名誉教授(精神・心理学)。現在もハーバード大医学部精神科講師を務める。著書に「アメリカの中のヒロシマ」(共著)など多数。

被爆者の知恵

 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターの新シリーズ「ヒロシマと世界」の初回を飾ることができ大変光栄に思う。

 当初から私は、広島での被爆者調査を心理学的な調査としてだけでなく、原子爆弾の使用が人類に何をもたらしたかを目撃するようなものだととらえていた。今まで手がけた仕事のなかで、私にとってこれほど重要な意味をもったものはない。

 1962年4月、早春のある晴れた日に妻とともに広島に到着したあのときから、広島は、私たちの心のなかに、いや魂のなかに住み続けている。そのような都市はほかにない。

 広島の人々の大義は実に深遠である。私たちは、ほかのどの地に住む人々であれ、広島の人たちに対するほどの共感を感じたことはない。私的なことだが、私たちの息子の1歳の誕生日を、数人の友人が一緒に温かく祝ってくれたことを思い出す。調査が終了してからも私は幾度となく広島へ戻り、その絆(きずな)を再確認するとともに、広島という街とそこに住む人々についてできる限り学び続けた。

 ヒロシマに関する私の著書「死の内の生命」は、被爆者について書いたものである。被爆者の尋常でない苦しみや、彼らの持つ特別な知識について触れている。被爆から17年後に私が調査したときには、被爆体験の傷はなお生々しいものであった。しかし、同時に私は、被爆者のなかに厳しい試練から立ち直り、人生を取り戻すことを可能にする回復力にも出合った。そして調査から47年、被爆から64年が過ぎた2009年の今、被爆者は核危機との闘いのために世界規模で努力をし、一丸となってそのエネルギーを注いでいる。当然のことながら、被爆者は高齢化しており、私たちはこれまでにもまして、被爆者が特別に併せ持つ苦痛と知恵を正しく認識する必要がある。

 その苦痛は、被爆者が生涯にわたり死と向き合っていることと関係する。被爆直後の死の海、おぞましく、しばしば致命的となった初期放射線による影響(「目に見えない汚染」と私は呼んでいる)、白血病という形で表れたり、さまざまながんとして数十年後に発症したり、さらには次世代にも影響を及ぼすかもしれない放射線後障害…。極限における感情体験の例がそうであるように、その苦痛は文字通り表現不可能であり、完全な形でとらえがたいのだ。

 それゆえに、1人の女性は私にこう言った。「私が感じた恐怖は、言葉にはできないのです」。被爆者を治療し、自らも病に倒れた有能な広島の医師である蜂谷道彦博士は、後にこう記している。「内部を焼き尽くされた逓信病院の病棟。そのねじまがった鉄製のベッドから見える光景を描写する言葉を私は知らない」。しかし、どのように語られようと、語られまいと、被爆者は特別な次元の苦痛に関する知識を得たのである。

 その知識には、世界の終末に近い経験をしたことが含まれる。広島と長崎の人々だけが、世界を破滅させる力を持つ核兵器の性質を直接知ったのである。ある歴史学の教授は、比治山から街を見下ろして気づいた衝撃を私にこう語った。「広島が無くなった…広島はもはや存在していなかった」。この言葉は、教授のメッセージであった。それは私に次のように話した医師の思いと重なっていた。「私の体全体はまっ黒に見えた。すべてが暗く見えた。どこもかしこも…。そして思った。『世界は終わりつつあるのだ』と」。この「核による終末」の感覚が、被爆者が得た特別な知識の核心部分である。単なる知的な認識とは対照的に、被爆者のそれは体で獲得した知恵とでもいえよう。

 被爆者とのかかわりを通じて私は、自身は生き延びたけれども死を目撃したり、死にかけた体験をしたりした人々全般に特別な関心を抱くようになった。のちに私は、ナチスの強制収容所やベトナム戦争の生存者、さらには米国ペンシルベニア州のスリーマイルアイランド原子力発電所事故など多くの天災や人災を生きのびた人々とかかわりを持つようになった。そして、こうした生存者のみが私たちに教えることのできる深遠な真実を理解できるようになった。

 私たちは、人間として人生に意義を見いだしつつ生きている。生存者たちは個人的な死との遭遇に意義を与えることで、自らの真実に行き着く。被爆者は、自身の体験と世界の核の危険を関連付けることに意義を見いだすかもしれない。「生存者の使命」と私は呼んでいるのだが、自分たちがその犠牲となった破壊するものとの生涯にわたる闘いに身をささげるようになるかもしれない。多くの被爆者にとって、その使命には、恐るべき核兵器の真実を世界に伝えるという継続的な活動や、あらゆる地で反核運動に参加することが含まれる。

 こうした道徳的かつ政治的な活動の傾向は、62年に私が広島で調査をした際、すでに被爆者の間に見て取れた。しかし、それ以来、この活動は大きく広がり、被爆者は核兵器に関して世界的良心を形成する主体となった。確かに、他の多くの人々がこの過程で貢献してきたが、被爆者が彼らの言葉やその存在ゆえに持ち得るほどの道徳的権威を持って貢献できたわけではない。そして、こうした行動により被爆者は、生き延びた者をしばしば襲う虚無感を乗り越え、1人の人間としての価値を再確認することができたのである。

 こうして被爆者は、死と直面したことから特別な知恵を引き出すことのできる、敬意を表すべき生存者の仲間入りを果たした。この問題を取り上げたエッセイ「創造者としての生存者」の中で私は、第二次世界大戦中の自身の生存体験をもとに世界に知識をもたらした3人の人物について書いた。その1人は、フランスの作家アルベール・カミュである。カミュは、体制に反対する「反逆者」であり続けることに固執しつつ、全体主義の残忍な心理状態を暴いた。アメリカ人作家のカート・ボネガットは、捕虜としてドレスデンの空爆を目撃した経験をもとに、人間が持つ殺すことへの性癖をあざけりとともに糾弾した。そして、ドイツ人作家であり芸術家のギュンター・グラスは、私たちの誰もがそうした衝動にとらわれる可能性があることを明確に示しつつ、ナチスの残虐行為をブラックユーモアで描いた。

 被爆者もまた作家となり、芸術家となった。しかし、彼らの最も顕著な功績はより社会的な場においてであった。特に62年にインタビューした非凡な2人の人物が思い浮かぶ。広島市長であった浜井信三氏は、原爆が投下された当時、広島市役所の若い職員であり、自らも被爆しつつ他の被爆者を勇敢に助けた。彼は広島の再建にあたりユニークな役割を果たした。浜井市長が私に強調したのは、「世界と共有すべき重大な経験」をしたことで広島の名を世界に知らしめる一方で、「美しい環境」と「市民の内面」において、広島を「輝きのある街」にしたいという前向きな願望とのバランスをとることであった。

 森滝市郎氏は、過去において日本の軍国主義を強固に支持する倫理学者であった。だが、原爆で重傷を負い、片目を失明することにより、彼は大きな変化を遂げ、政治的にも精神的にも反核運動の先導者となった。森滝氏はいかなる国の核実験に対しても、実験が実施されるたびに原爆慰霊碑前で、抗議の座り込みをした。その姿は座禅を組んでいるようであった。私も(座禅式はできなかったが)誇りに思いながら、一度一緒に座り込んだことがある。浜井氏も森滝氏も、そして多くの被爆者も、前述したエッセイの中で私が提示した原則を実践したのである。それは、「死に触れた後、再び生きている人々の輪に加わることは、洞察と力の源となり得る」。そして「生存者の痛みを伴った知恵は、少なくとも可能性として、普遍的知恵となりうる」と。

 では、被爆者の知恵とはどのようなものであろうか。第1に、彼らが持つ最も苛烈(かれつ)な痛み、苦しみ、喪失感をあげることができるだろう。次に、核兵器がもたらす完全なる破壊、あるいは世界を終わらせる破壊力に対する特別な理解がある。さらに、被爆者は致命的な放射線の影響という、核兵器の「目に見えない汚染」の知識を実体験として持っている。そして被爆者は、世界に何千発もの核兵器が存在するなかで、自分たちの知識が、広島・長崎をはるかに超えて、今日的な意義を持っていることを知っている。実際、被爆者は口々に、国家が核兵器を製造し、実験し、使用計画を練っていることがいかに愚かなことであるかを私に語った。

 私は個人的な体験からも、被爆者の知恵の持つ影響力について語ることができる。私自身が深くかかわっている医師たちの運動(「社会的責任を果たす医師の会〈PSR〉」および「核戦争防止国際医師会議〈IPPNW〉」)において、私たちの考えの根底にあるのは、もともと被爆者がその体験を伝えてきた広島と長崎が示す核被害の真実である。このように被爆者は、医師たちの反核運動に影響を与えており、85年にIPPNWがノーベル平和賞を受賞したことを含め多大な貢献をしている。

 私たちは皆、核兵器の貯蔵や拡散の危険を熟知している。しかし、私たちは同時に、核兵器に反対する情熱が拡散していることも認識すべきである。そこには被爆者が苦しみながら獲得した知恵が、世界中に広がっているのである。

 多くの世界の指導者たちが、この知恵に応え始めたと思える理由がある。核兵器廃絶を擁護しているアメリカのバラク・オバマ次期大統領の耳にも、被爆者の声が疑いもなく届いている。世界中が広島と長崎の被爆者の経験と知識の恩恵を受け続けているのである。

(2009年1月3日朝刊掲載)

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