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社説・コラム

ブラジル被爆者平和協会の森田隆会長 に聞く

■ヒロシマ平和メディアセンター事務局長 難波健治、記者 桑島美帆

 「被爆者を水に例えると、源流は広島と長崎。そこから流れ出した被爆者は韓国に流れてもアメリカに流れても、ブラジルに流れたとしても被爆者であることに違いない」。ある在韓被爆者の言葉だ。ブラジル生活52年の森田隆さん(84)もこの思いを抱いて四半世紀、被爆者運動に心血を注いできた。4カ月を超える船旅を終えて古里に帰ってきた森田さんに、日本へのメッセージを聞いた。

原爆症認定を一日も早く 高齢化などで手続きさえ困難

 -ピースボートでの129日間世界一周の旅、さぞかしお疲れでしょう。
 原爆の実情はまだまだ世界に知られていなかった。最初の訪問地ベトナムでは、枯れ葉剤被害者の2世、3世と交流した。枯れ葉剤がもたらす子孫への影響は、被爆者以上のものがあるのではないか。そのことを彼らが身をもって訴えていることに力づけられた。

 -ブラジルに被爆者の組織ができて25年。最近、会の名称が変わったんですね。
 在ブラジル原爆被爆者協会がブラジル被爆者平和協会に。

 -なぜ、この時期の名称変更なのですか。
 かつては242人の会員がいた。現在連絡がつくのは124人。ブラジル全土に分散している。被爆者だけの集まりから、一般市民、若い人を含めた組織にしたかった。

 -ブラジルの被爆者が抱えている課題は何でしょう。
 高齢化が進み、医療費助成の申請など毎年の手続きをすることすら難しくなっている。ブラジルの場合、国土は広大で在留証明を取りにサンパウロまで出かけるのも楽じゃない。申請書が書けなくなって家族が代わりに書こうにも、子や孫では分からないというケースもある。書類がそろわないと援助は打ち切られる。

 -いま最も必要なことをあげてください。
 原爆症認定を一日も早くやってもらわないと、被爆者はあすがどうなるか分からない。なのに、認定にも来日要件がある。がんで重症の人も来日しないと認められない。医療費助成の上限もぜひ何とかしてほしい。

 -森田さんのブラジル移住のきっかけは?
 戦後10年たっても広島での生活は大変だった。親族の不幸も続いた。私の体は、8月の太陽にあたると白血球が異常に増え、寒気と震えに襲われた。そんなとき、ブラジルから帰国した人に移民を勧められた。サンパウロのような高原地帯は健康のためにいいとの助言もあった。被爆者に対して援助のない時代の悲しい選択だった。

 -1956年、32歳の移住でしたね。
 妻31歳。小学校2年の長女と小1の長男が一緒だった。

 -異国での生活はどうでしたか。
 大変だった。2年間で10回引っ越した。農業移民の名目だったが、被爆した体では耐えられず、時計修理の技術を頼りに工場に勤めたり、時計店を出したりした。言葉が通じない、知人もいない、お金もない…。子どもの結婚に差し支えてはと、被爆者であることも公言しないで暮らした。

 -84年、被爆者の会ができました。
 その前の年、広島で研修を受けた日系の女医さんが被爆者を検診してくれることになった。結果はみんな異常なし。「体がだるいのは横着病」だと言われた。翌84年、現地の邦字新聞が「被爆者よ届け出よ。年金制度は生きている」という記事を載せた。誤報だったが、それで権利意識に目覚めた。子どもも結婚し、生活も軌道に乗ってきたので私たち夫婦が会の設立を呼びかけた。

 -その後の歩みは順調でしたか。
 毎年のように自費で帰国し、政府や広島・長崎の県・市に「ブラジルにいる被爆者も、日本国内にいる被爆者と同じように援護してほしい」と訴えた。しかし、援護は遅々として進まなかった。医療費の助成も、被爆者健康手帳の交付や健康管理手当の支給も、結局、裁判に訴えて勝ったから改善された。

 -在外被爆者の連携をどう考えますか。
 1990年の被爆45周年式典に招かれた南米と北米の被爆者が、広島で一緒に宿泊し、語り合った。この出会いがきっかけで、北米と南米に韓国、日本被団協も加わって運動の輪が広がった。連携を続けるうちに、もう裁判しかない、ということになった。

 ブラジルでは私が最初に裁判を起こした。国を相手取った裁判だけはするなという仲間もいた。県人会も猛反対だった。祖国と闘うには大きな決意がいった。心筋梗塞(こうそく)で倒れ声も出なくなった。1つ1つ裁判に勝って権利を得てきた。だが、援護法の全面適用はまだなされていない。

 -若い人に言いたいことはありますか。
 私たちが闘っていることは、すべて戦争が原因。日本の近現代史をよく学び、戦争を起こさない国づくりを進めてほしい。

もりた・たかし 1924年、広島県佐伯郡砂谷(さごたに)村(広島市佐伯区)生まれ。13歳から時計商で働く。44年に召集。憲兵となり、45年8月1日に広島へ赴任。6日朝、己斐山腹へ防空壕(ごう)づくりに向かう途中、爆心地から1.3キロの路上で閃光(せんこう)を浴び、吹き飛ばされた。背中に大やけどを負ったが、状況を調べよとの上官の指示で火の海と化した廃虚を歩き回る。相生橋西詰めでは教育参謀だった朝鮮王族のイウ公を見つけ、宇品港まで運んだ。

 ≪メモ≫非政府組織(NGO)「ピースボート」(東京)が、地球一周の船旅に広島と長崎の被爆者103人を無料招待した。昨年9月に横浜港を出発。129日間かけて5大陸20カ国を巡りながら、被爆証言をしたり現地の人たちと交流し、1月13日に帰国した。

<南米被爆者の歩み>
1957年原爆医療法施行
68年被爆者特別措置法施行
74年厚生省が402号通達
84年被爆者16人がサンパウロ市で「在ブラジル原爆被爆者協会」設立
85年南米3カ国に日本から医師団派遣
86年南米5カ国に医師団派遣。以後ほぼ1年置きに派遣
95年被爆者援護法施行
98年在韓被爆者の郭貴勲(カク・キフン)さんが健康管理手当の打ち切りは不当と大阪地裁へ提訴。2001年に勝訴
02年森田隆さんが健康管理手当支給を求め広島地裁に提訴。その後9人が追加提訴▽郭さんが大阪高裁でも勝訴。政府は上告断念
03年厚労省が402号通達廃止、在外被爆者へ手当送金始まる。在ブラジルの3人は時効を不当として裁判継続。04年敗訴。06年広島高裁で勝訴。07年最高裁が県の上告を棄却し、時効分支払いを命じる
07年広島で被爆した韓国人元徴用工40人が起こした訴訟で最高裁が国家賠償を認め、一人120万円の支払いを命じる
08年在外公館での手帳交付申請などを認める改正被爆者援護法が施行


援護法全面適用 連携深め実現を 豊永恵三郎(72)
(=韓国の原爆被害者を救援する市民の会 広島支部長=)

 在外被爆者にも、それぞれ歴史的な立場の違いがある。

 韓国、北朝鮮、中国などアジアの被爆者は、日本の侵略戦争や植民地支配のために強制的・半強制的に日本に連れてこられて被爆した。だから、日本政府による謝罪と補償を要求している。

 一方、いろんな事情で海外移住した被爆者もいる。その国の国籍を取得した人も日本国籍のままの人もいるが、もとは日本人だ。

 これら在外被爆者に対して、政府は国内の被爆者と違う扱いをし続けてきた。なぜか。

 それを考える一つのポイントは、被爆者援護法の性格づけだ。

 被爆者援護法は弱者救済のための社会保障法だという考えにたてば、日本国に税金を払っている人だけが対象になる。一方、日本が起こした戦争の結果、原爆が投下されたという事実をもとに被爆者援護のあり方を考えると、国家補償の精神で行われなければならない。どこの国に住んでいるかは関係ない。

 政府は前者の立場で1974年、厚生省公衆衛生局長通達(402号通達)を出し、日本で被爆者手帳を取得した在外被爆者は、日本にいる間は手帳は有効だが、いったん出国すると手帳は失効し、健康管理手当は受けられなくなる、とした。

 90年代に韓国、北米、南米、そして日本被団協も加わって運動が広がり、裁判闘争も一歩ずつ前進した。この連携をさらに推し進め、被爆者援護法の全面適用を実現させる必要がある。

(2009年2月2日朝刊掲載)

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