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社説・コラム

コラム 視点 「異文化交流通して深まるヒロシマの意味」 

■センター長 田城 明

 広島市の平和記念公園や原爆ドームは、訪れる人々にさまざまな思いを抱かせたり、違った印象を与えたりする。同一人物であっても、その人の年代や訪問の回数、時期などによって違ってくるから不思議である。

 私が原爆ドームと初めて対面したのは、今から41年前の1968年8月。ベトナム戦争の激しいころである。「再び原爆が使われるのではないか」。20歳の私は、そんな恐怖感を心の片隅に抱きながら、当時住んでいた神戸からテントとリュックを背に広島駅に降り立った。

  旧元安橋の欄干にもたれ、長い間原爆ドームを見つめた。原爆資料館の展示資料で見たばかりの廃虚の街並みや熱線でひどく焼かれた皮膚、血のりのついたぼろぼろの衣服…。網膜に焼きついた光景が、崩れ落ちそうにも見える原爆ドームと重なった。

 戦後23年。旧相生橋の北側には、なお「原爆スラム」と呼ばれたバラックが河岸に細長く張り付いていた。ドームもスラムも同じ原爆の傷跡として映った。

 その河岸はいま、緑に包まれ市民の憩いの場を提供する。街全体の再建と併せ、広島は戦争から復興した「希望の都市」として、紛争地からの訪問者らに語られるようになった。私が初めて訪ねた41年前の広島は、既に核兵器や戦争に反対する「平和の都市」の象徴として定着はしていた。が、復興を通して「希望の都市」を語るにはなお、スラムのような「傷」があちこちに残っており、想像し難いことであった。

 人は住み慣れてその地があまりに身近になると、初期に感じた新鮮な印象が薄れたりもする。平和公園や原爆ドームが常に意味をもって語りかけてくるには、核や平和に対する自身の問題意識も磨く必要がある。

 「希望の都市」という見方も、主として海外の訪問者からもたらされた概念だといえる。国連訓練調査研究所(ユニタール)広島事務所が主催する、広島の世界遺産保全を考える研修プロジェクトに参加したイラクやアフガニスタンの研修生たちから、そうした言葉をよく耳にする。ボスニア・ヘルツェゴビナから被爆地を訪ねた人たちも、同じ言葉を発した。

 戦争や紛争によって荒廃した都市や村も、平和を保って建設に励めば、広島のように復興が可能なのだと、母国の再建に希望を見いだすからであろう。

 むろん、物理的な復興ばかりではない。被爆者らが、復讐(ふくしゅう)や憎悪や暴力ではなく、和解と友愛、非暴力を訴えることも、彼らが見いだす「希望」と密接につながっているのだ。

 ユネスコ・テヘラン事務所長で、中国人のハン・チュンリー氏は、被爆体験の意味や原爆ドームのメッセージがより広く、深く海外に理解されるためには、戦争中日本軍によって被害に遭ったアジアの人々との対話が欠かせないという。

 私自身もアジア各地でのこれまでの取材などを通じて、彼と同じ思いを抱いてきた。海外からの訪問者から気づかなかった点や新たな価値を教えられることも一再ではない。「ヒロシマ」の持つ意味は、異なった文化や歴史を持つ人々との交流を通じて、より深まっていくことだろう。

(2009年5月18日朝刊掲載)

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