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社説・コラム

ヒロシマと世界:被爆者の挑戦に世界が合流を

■デービッド・クリーガー氏 核時代平和財団会長(米国)

クリーガー氏 プロフィル
 1942年3月、ロサンゼルス生まれ。1968年、ハワイ大学で博士号(政治学)取得。サンフランシスコ州立大学准教授などを経て、1982年に非政府組織(NGO)「核時代平和財団」を創設、会長として現在に至る。米国や欧州、アジア各地で、平和や安全保障、国際法や核廃絶について講演を行っている。これまでの活動を通じて、多くの賞を受賞。核が人類に与える脅威に関する著書も多い。編集した最新書は、『核兵器廃絶の課題』(2009年)。現在、ヒロシマをテーマに詩集を創作している。世界未来協議会の評議員、核時代に平和を求める他団体の顧問も務める。

被爆者の挑戦に世界が合流を

 世界で初めて原子爆弾の攻撃を受けた広島は、死と灰の街へと姿を変えた。この壊滅的破壊からよみがえった「ヒロシマ」は、人類がより崇高な運命をたどるよう挑んでいる。

 広島はただの場所以上のものになった。事実上無限の破壊力を有する新時代の恐るべき脅威の象徴となった。一つの原爆が一つの都市を破壊した。その意味するところは、複数の核爆弾があれば複数の国を破壊でき、数十個の核爆弾があれば文明は廃虚と化すということである。軍拡競争が加速する中、地球上の生命の未来は危険にさらされた。そしてついには数万個の核兵器が造られ、配備された。私たち人類は、自らが生み出した科学技術により、自身を破滅させる道具を造り出したのである。広島への原爆投下は、核時代の幕開けであった。

 広島は1945年8月に破壊されたが、翌年春には草や花までが生えてきた。広島の街は、復興という困難な課題に取り組んだ。しかし、広島は単なる都市に再びなることは決してなかった。それは、人間の精神に根ざしたより深いもの、すなわち破壊と潜在的な消滅の象徴であると同時に、希望と再生の象徴となった。

 象徴としての「ヒロシマの力」は、人類が消滅の危機にさらされていることを地球上のすべての人々に気付かせることにある。広島と長崎の被爆者は、「核兵器が私たちを滅ぼす前に、核兵器を消滅しなければならない」と教えている。ここで「私たち」というのは、「全人類」という意味である。被爆者は自らの個人的な悲劇に立ち向かい、明らかにするという勇気ある行動を取ってきた。恐怖や脆弱(ぜいじゃく)さに向き合いながら、自分たちの過去の体験が人類全体の未来となるのを防ぐために、人々の前で語り続けてきた。被爆者は現代の預言者である。彼らは奈落の底をのぞき見たが、警告を発するために戻ってきたのである。

 ほかのアメリカの子どもたちと同じように、私は学校で、広島と長崎への原爆投下は戦争を終結させ、アメリカ兵の命を救うために必要であったと習った。学ばなかったのは、原爆の使用が無差別に人々を殺傷し、不必要な苦痛を引き起こす兵器であるが故に、戦争法に違反していたということである。また、原爆犠牲者のほとんどが、市民であったことも学ばなかった。強調されたのは、原爆を製造した科学技術上の達成である。原爆の使用は疑問視されることなく称賛された。米国の視点は、原爆を上から見たものであった。私たちは原爆を投下した。それが落下し、巨大な破壊という目的を達成するのを目撃した。そして、私たちはその使用を正当化したのだ。

 広島と長崎の原爆資料館を訪問した際、私はまったく異なる視点を得た。学んだことは、人々の苦しみと死であった。原爆は男性も、女性も、子どもたちも殺した。無差別攻撃であった。そして、爆風や火災を生き延びた被爆者を放射線にさらし、長期にわたる疾病や死をもたらした。放射線被曝(ひばく)は、数万のさらなる命を奪い、次世代に影響を与える。原爆は殺し続けるのである。

 日本では、原爆を科学技術上の達成として上空から見るのではなく、地上で起きた灼熱(しゃくねつ)地獄として見た。20万人以上が広島と長崎で命を落とした。だが、生きながらえて体験を語る被爆者がいた。その証言は地獄からのものであり、もしこの核技術が規制も管理もされることなく存在し続ければ、人類の未来がどうなるかを伝える重大な戒めの証言であった。

 ヒロシマの挑戦は、瓶の外に出てしまった核という悪霊を瓶に戻し、最も致命的な破壊の道具を再び人間が支配できるようにすることにより、未来の世代を含めて全人類を守ることである。ヒロシマの挑戦に応えるには、原爆のきのこ雲の下にいた人々の視点が共有され、理解されなければならない。最良の教師は、原爆を直接体験した被爆者である。しかし、被爆者の高齢化は進み、彼らだけが教師では十分でない。ほかの人々が名乗りを上げ、核兵器廃絶を追求する被爆者の列に加わらねばならない。

 広島と長崎への原爆投下から60年以上の歳月が流れ、ほとんどの人々が被爆体験とはどのようなものであったかを想像できなくなっている。ヒロシマの挑戦は、世界的な想像力をかきたてることである。もし私たちが原爆の恐怖と滅亡の沈黙を想像することができるなら、政治的行動をもってそれに応えることができよう。だが、もし私たちが現状に甘んじ、核兵器が世界的大火災を起こす様を想像することができないならば、核時代を終わらせるために十分な数の人々が立ち上がることはないであろう。

 広島への原爆投下直後、フランスの偉大な小説家で実存主義哲学者のアルバート・カミュは、「平和は遂行する価値のある唯一の戦いである」と書いた。人類は連帯して、私たちが組み込まれている核至上主義や軍国主義に立ち向かわなければならない。私たちは平和のために戦い、核時代の終わりを求めるか、それとも集団自殺をするといわれるタビネズミががけから飛び降りるように従順にしておくかの選択を迫られている。

 20世紀の偉大な科学者11人は、1955年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名した。宣言には次のような一節がある。「私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識と知恵の絶えない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、その代わりに、私たちは死を選ぶのであろうか? 私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、 と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かって開けている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている」

 1982年、私は「核時代平和財団」を設立した。この財団名は、核時代において平和が必須であることを意味している。財団が設立されたのは、世界の2大核保有国である米国とソ連の指導者が対話を持とうとしなかった時代である。私たちは、すべての市民が変化をもたらすことができ、また、そうしなければならないとの信念から財団を設立した。私たちの目標はヒロシマの挑戦に応えることであり、核兵器廃絶の必要性を人類に目覚めさせることである。これまで核兵器のない世界を実現するために啓発活動を行い、国際法を強化し、新しい平和の指導者が力をつけるように努めてきた。

 ここ数年、私たちは核兵器のない世界に向けて米国が主導することに焦点を当ててきた。今年の初め、7万以上の署名をホワイトハウスに届け、オバマ大統領に核廃絶に向けて指導力を発揮するよう要請した。私たちは、一連の大統領の発言、とりわけ今年4月のプラハでの演説に勇気づけられている。オバマ大統領はこの中で、「私は信念を持って、米国が核兵器のない、平和で安全な世界の追求のために、献身することを明言する」と述べた。さらに大統領は、核兵器を使用した唯一の国として、米国には行動し、先導する「道義的責任」があると発言した。これは、米国政府としてはまったく新しい姿勢であり、世界中で歓迎された。しかし、これだけでは十分ではない。

 オバマ大統領や他の指導者たちが行動を呼びかけるだけでは不十分である。指導者たちは実際に行動をおこす必要がある。そして、そのためにはそれぞれの国の市民、世界中の人々の支援が必要である。核兵器のない世界という目標には、反対がつきまとうだろう。その反対を乗り越えることができるのは、世界中の人々の力強い、継続した要求によってのみ可能である。

 指導者たちは頻繁に「究極の目標」として核兵器のない世界について口にする。この意味するところは、遠い未来に実現される目標、いや、おそらくは実現されることのない目標ということである。私たちは今こそ「究極の」という言葉が「緊急の」という言葉に置き換えられるように、そしてこの変化が行動へと展開していくように働かなければならない。

 私たちは驚くほど美しい世界に住み、生命の奇跡を共有している。このたぐいまれなる、生命の維持が可能な惑星の住民として、私たちは傷つかぬままの状態で、この世界を次世代へ引きわたす責務も共有しているのである。

 それを成功させるには、ヒロシマの挑戦に応えなければならない。私たちは、この挑戦のための懸命な努力を受け止めなければならない。そして、広島で最初に明らかにされた人類に対する核の脅威から、この世界が解放されるまで、決してあきらめてはならない。

(2009年7月13日朝刊掲載)

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