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社説・コラム

ヒロシマと世界:原爆文学を次世代へ 核戦争の恐ろしさ警告

■ウルシュラ・スティチェック氏 広島大学非常勤講師(ポーランド)

スティチェック氏 プロフィル

  1960年4月、ポーランドの首都ワルシャワ生まれ。1987年、ワルシャワ大学日本学科卒業。1991年に広島大学へ留学。1995年、同大大学院で修士号取得。修士論文は「原民喜の不安文学」。2005年、学位論文「人間存在の不安―収容所文学と原爆文学」をまとめ博士号を得る。現在、広島大学・県立広島大学・広島修道大学で非常勤講師を務める。広島に文学館を!市民の会、花幻忌の会(原民喜)、原爆文学研究会、日本比較文学会の各メンバー。ジョン・W・トリート著『グラウンド・ゼロを書く―日本文学と原爆』の共訳者の一人。原爆文学や収容所文学について多くの小論を発表している。アムネスティ・インターナショナルの広島グループの会員としても活動している。


原爆文学を次世代へ 核戦争の恐ろしさ警告

 今日、若者たちの読書時間は減る一方である。特に文学作品を読もうとしない。文明は私たちの暮らしをせき立て、過去に書かれた書物を読んでじっくりと考える余裕がなくなった。さほど重要でもない多量の情報がマスコミを通じて流されることで、私たちは過去のメッセージを聞けないでいる。文学を通じて伝えられてきた警告にも耳を傾けなくなった。

 戦争を知らない世代は最も幸運かもしれないが、最も体験に乏しいとも言えるだろう。私自身も、親の体験や映画、本などからしか戦争の恐ろしさについて知らない世代に属している。

 社会主義時代のポーランド(1945~1989年)では、ナチス・ドイツの占領下から「解放」してくれた旧ソ連への、半ば強制的な感謝の気持ちが色濃く残っており、私はこうした雰囲気の中で育った。子ども時代の記憶は、マスコミがつくり出す社会主義の宣伝に満ちた戦争の恐怖に支配されている。当時、私は政府に怒りを感じていた。だが、今から思うと戦争の恐怖に対して敏感な人間になったという点では、いくぶん感謝の念を抱くようにもなった。

 恐らくそれが主な理由であろう。私はワルシャワ大学の日本学科で学んだ折、原爆文学をテーマに修士論文を書いた。それも、日本でさえあまり知られていない作家、原民喜の作品についてまとめた。日本に留学後も原についての研究を続け、彼の戦前の作品に関して二つ目の修士論文を書き上げた。

 私はその後、原爆文学だけでなく、母国ポーランドで第2次世界大戦中に行われたアウシュビッツ強制収容所の大虐殺の悲劇を、文学的な視点から分析して博士論文をまとめた。原爆文学と対比させ、「収容所文学」と呼んでいる。

 第二次世界大戦の直後、原爆を生き延びた被爆作家たちは、体験していない次世代に伝えるために、各瞬間を可能な限り詳しく、写実的に描写した。それぞれの作家がたどった運命もまた違っていた。

 残念なことだが、多くの作家たちは他界し、彼らの作品まで忘れられてしまった。歌人の正田篠枝(しのえ)のように、ほとんど忘れられた作家もいる。詩人でエッセイストの栗原貞子のように、何人かは人生の終わりまで書き続けた。詩人の峠三吉は病気で、俳人で小説家の原民喜は自殺を遂げて、共に若くして亡くなったが、原爆文学の傑作を残した。

 竹西寛子のように1950年代ごろから、原爆について書き始めた作家もいる。被爆当時12歳だった林京子の場合は、すでに作家として名をなしていたが、被爆の記憶があまりにも鮮明であったために書けなかった。彼女が被爆体験について書き始めたのは、1970年代ごろからである。

 原民喜が1946年に書いた小説『夏の花』は、いくつかの言語に翻訳されている。彼はその中で広島に投下された原爆について次のように描写した。

 「そして、赤むけの膨れ上った屍体(したい)がところどころに配置されてゐた。これは精密巧緻(こうち)な方法で実現された新地獄に違ひなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとへば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換へられてゐるのであった。苦悶の一瞬足掻(あが)いて硬直したらしい肢体は一種の妖(あや)しいリズムを含んでゐる」

 冷戦中の1951年、原民喜は自らの被爆の記憶に圧倒されて苦しみ、書けなくなったことを自覚して自殺した。一方、栗原貞子は、世界の平和と、原爆で苦しんだ外国人を含むすべての人々のために、生涯を闘いにささげた。

 彼女は著書『ヒロシマというとき』で次のように書いている。「アジアの国々の死者たちや無辜(むこ)の民がいっせいに犯されたものの怒りを噴き出すのだ」「わたしたちはわたしたちの汚れた手をきよめねばならない」と。

 被爆から今日に至るまで、生き残った多くの被爆作家や原爆文学の価値を認めた評論家たちは、この文学が人間の記憶から完全に消えないように絶え間なく努力してきた。日本全国のさまざまな地方博物館や図書館で、原爆文学の展覧会が行われてきた。被爆作家たちによる地方での出版も相次いだ。しかし、それぞれ出版部数が少ないために、全国の書店や図書館に置いても、ほとんど目立たない。

 こうした展覧会や出版物、原爆文学についてのシンポジウムや講義、被爆作家による講演会、広島・長崎の悲劇について書いた作家たちに関する新聞記事などすべてが、日本の「現代史」を次世代に伝えようとする営みである。

 今日、西日本において原爆文学の活動に関して二つの興味深い現象がある。できるだけ多くの人々に原爆文学作品を紹介するとの目的を持った熟年の活動家たちは、2000年12月に「広島に文学館を!市民の会」を発足させた。現在の活動は主にインターネットを通じて行っている。「市民の会」のメンバーには新聞記者や大学教授、詩人や作家らが加わっている。すでに1980年代には、広島大学の好村富士彦教授の指導で「広島文学資料保全の会」ができていたが、市民の活動に対して広島市から支援と理解を得ることができなかった。さらに主要メンバーの相次ぐ死去に伴い、結局解散するに至った。

 しかし、以前の運動に参加したメンバーに新たに加わった広島大学の教授たちや作家、詩人の協力で2000年秋に「広島文学館を支える会」が発足、その後名称を「広島に文学館を!市民の会」と変え、峠三吉、原民喜、他の作家の資料を収集するなど素晴らしい活動を続けている。

 当初のこの会の目的は、広島市の中心にある被爆建物、旧日本銀行広島支店に文学館を作ることであった。しかし、以前と同じように、市から何の支援も得られず、結局、市民運動はこの主要な目的を果たせなかった。「平和の都市」として知られる広島市だが、原爆文学について広く知ってもらうための文学館がないようでは、「文学の都市」とは言い難い。貴重な原爆文学作品の散逸を防ぐために活動している私や仲間たちにとって、このような指摘をしなければならないのは悲しいことである。というのも、広島市より小さい都市である福山、尾道、津和野でも文学館があるからである。被爆作家や作品について少しまとまって学べる場所があるといえば、広島市立図書館2階の一隅においてのみである。

 もう一つの活動は、さまざまな都市で原爆文学を紹介するなどしている若い学者たちの取り組みである。2001年12月、九州大学の研究者らが「原爆文学研究会」を設立した。この会の目的は「原爆文学」の問題にとどまらず、21世紀に入った世界の立場から、より広い範囲で原爆の問題を扱うことである。翌年からは研究雑誌『原爆文学研究』(Journal of Genbaku Literature)も毎年出版している。

 こうした会の活動を見ていると、私たちは原爆文学に関心を抱く人たちの数が増えてくるという希望を持つことができる。というのも、熟年世代だけでなく、若い研究者たちは原爆文学への関心を高めるための活動に熱心に取り組んでいるからだ。しかも彼らは、日本や海外の若い世代に対して、光や音など視覚効果や音響効果を生かした、新しい手法を取り入れながら原爆文学に関心を持たせようと試みている。

 インターネットなどの発達で、世界は一つになってきた。被爆作家たちが60年以上前に書いた原爆作品の隠されたメッセージは、日本社会のみに向かっていた。作品を通じて作家たちは、核兵器が使用されたらどうなるかという危険について、日本社会に警告するのが目的だった。市民に対して原爆が使われときの恐怖について、彼らは書いた。

 1950年に原民喜は、米国が朝鮮に対して原子爆弾の投下を計画したとき、「家なき子のクリスマス」という詩の中で次のように記した。

 「今 家のない子はもはや明日も家はないでせう
 そして
 今 家のある子らも明日は家なき子となるでせう
 あはれな愚かなわれらは身と自らを破滅に導き
 破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません
 明日 ふたたび火は空より降りそそぎ
 明日 ふたたび人は灼(や)かれて死ぬでせう」


 彼のメッセージは、はるか前に書かれたにもかかわらず、今なお現実性を帯びている。世界はより小さくなり、遠くまで簡単に行けるようになった。そのことがまた、この地球をより危険なものにしているのだ。

 有名な政治家でも映画スターでもなく、一般市民によって伝えられた文学作品の中のメッセージ。その伝言は、私たちの心に素早く届いて、世界平和のために具体的な取り組みを始めるべきことを、私たちに喚起してくれているのかもしれない。

 特に被爆地広島からは、イラクやパキスタン、アフガニスタンでの戦争、あるいはパレスチナ・イスラエル紛争における残虐行為に対して、より強い反対の声が上がるはずである。そして今なら、核ミサイルを使う可能性のある北朝鮮に対して抗議の声が発せられるだろう。

 ポーランド人として私は、「アウシュビッツのような強制収容所を繰り返してはならない」と叫びたくなるほど暴力に反対している。同時に私には、グアンタナモ湾にある米軍収容所も閉鎖しなさいと要求する権利がある。さらに広島の市民として、世界中にあるすべての核兵器の廃絶を要求するもう一つの権利がある。

 もちろん、私はまずすべての若い人たちに原爆文学を読むように強く薦めたい。なぜなら、核開発競争を止めることができなければ、私たちの恐ろしくも悲しい未来が、そこに描かれているからである。

(2009年7月27日朝刊掲載)

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