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社説・コラム

ヒロシマと世界: 非核保有国への転換 対話こそ真の安全保障

■デーブ・スチュワード氏 デクラーク財団ディレクター(南アフリカ共和国)

スチュワード氏 プロフィル

 1945年5月、ケニアのナイロビ生まれ。カナダや英国でも教育を受け、ステレンボス大学、南アフリカ大学卒業。南アの外交官を経て、フレデリク・ デクラーク大統領の首席補佐官を務めるなど、長く公職に就く。1990年以来、デクラーク氏のスピーチライターを務める。同氏とともに1999年6月、「デクラーク財団」を設立、ディレクターとして今日に至る。2006年、財団内に「憲法的権利センター」を開設。デクラーク氏の自伝『最後の旅、新たなる始まり』(マクミラン社 1999年)の共著者でもある。

南アフリカの挑戦 核保有国から非保有国へ

 広島の平和記念公園を訪れた者は誰もが、1945年8月6日に広島を襲った忌まわしい運命に深く心を揺さぶられる。あの惨劇の無言の遺品―黒焦げの衣服、壁に焼きついた影、8時15分で永遠に時を止めた腕時計―すべてが言葉より雄弁に当時の惨状を物語っている。

 そのとき生後2カ月半だった私は、地球の反対側で平穏に暮らしていた。しかし、私たちの世代の誰もがそうであったように、私もきのこ雲の影の中で育った。私がこれまで生きてきた間に、米国は核兵器の開発、製造、配備に4兆ドル(約384兆円)以上を費やした。他の核保有国もこの間に、核兵器に数兆ドルを費やしたに違いない。これらの資源が核兵器のためではなく、人類の発展のために使われていたならば、どれほどの違いがあったかを想像してほしい。

 現実はこの瞬間にも、世界の海底を核ミサイル搭載の原子力潜水艦が巡航しており、その破壊力は人類をほぼ壊滅させることができるほどである。1隻のトライデント型潜水艦は、個別に照準を合わせた核弾頭を、6000キロの射程に入る都市に対し最大192個も発射できる。そして、その核弾頭一つ一つが、広島や長崎を破壊した爆弾の7~8倍の威力を持っているのだ。

 核兵器擁護派は、国際政治において自分たちがつくり出した恐怖の均衡ゆえに、60年以上にわたり世界の大国が大規模戦争にかかわるのを防いできたと主張する。広島への原爆投下後、国々は、一国の究極的安全保障は戦争が不可能になるほどの損害を敵国に与える能力を保有しているか否かにかかっているとの概念をつくりあげた。

 こうした考えに基づいて南アフリカ政府は、1970年代半ばに核兵器開発に着手した。主要な戦略的関心は、ポルトガル帝国の崩壊後、ソ連がアフリカ南部に影響力を広げ、アンゴラとモザンビークが独立したことだった。南アフリカは、もはや欧米諸国の「核の傘」による保護を頼ることはできず、このため自国の「抑止力」の開発に踏み切ったのである。

 その後数年をかけ、7つの原子爆弾を製造するプログラムが始まった。実際に完成したのは6個で、もう1個は完成半ばだった。核兵器を実戦で使用することは想定されていなかった。しかし、国家の存続が危機的脅威にさらされた場合には、南アフリカ政府は欧米諸国に核兵器を保有していることを伝え、そのことで欧米諸国が介入してくれることを願っていた。

 核兵器開発について知っている者は、プログラムに直接かかわった科学者と技術者、南アフリカ国防軍の幹部という、政府内のごく一部の人間に限られていた。政府は核兵器の保有について肯定も否定もしなかった。もっとも国際社会には、南アフリカが実質的な核保有国に並んだとの認識があった。核兵器保有国だと推測されることは、実際に保有しているのと同じ効果があった。

 デクラーク元大統領は、80年代初頭のある時期、鉱物・エネルギー大臣を務め、国の原子力エネルギー計画に携わった。核兵器製造計画について知ったのはそのときである。そして、1989年9月に大統領になった彼は、再び、国の核兵器政策に関与することとなった。

 デクラーク大統領は、核兵器計画はもはや何の意味もないと考えた(もともと意味があったとすればのことだが…)。南アフリカはすでにソ連による戦略的脅威を心配してはいなかった。冷戦はソ連の共産主義体制の崩壊により終結していた。ベルリンの壁の崩壊は、東欧の自由化と、世界の戦略的バランスがまったく異なったものになることを告げていた。

 その1年前の1988年12月22日、南アフリカは、キューバ、アンゴラと3カ国協定を結んだ。それによってナミビアが独立し、アンゴラから5万人のキューバ軍が撤退した。

 最も重要なことは、デクラーク大統領は、南アフリカ国民の大多数を占める黒人を代表する諸政党との間で、対話により解決をはかるという歴史的決断をしたことである。デクラーク政権は、長期にわたる激しい抗争の後では、核兵器や軍事力に頼るよりも、話し合いによる合意がすべての南アフリカの人々に、長期にわたる安全保障をより確実にもたらすとの結論に達したのである。

 こうした状況下では、核兵器を維持することはまったく意味をなさなかった。それゆえ、1989年の暮れ、デクラーク大統領は自国の核兵器を解体するように命じた。さらに、核拡散防止条約(NPT)への加盟も決断した。南アフリカは、1991年7月10日にNPTに加盟し、約2カ月後の9月16日に国際原子力機関(IAEA)との間で包括的保障措置協定に署名した。

 核兵器を廃棄するというデクラーク大統領の決断は、自国民にとっても、国際社会にとってもまったくの驚きであった。大統領が、1993年3月24日に上下両院合同会議で演説を行うと表明した際、ほとんどの識者や報道関係者は、当時審議の行われていた憲法問題に関する内容だと考えていた。

 旧ソ連共和国の中には、1990年代初頭に独立した後、核兵器を放棄した国もある。しかし、南アフリカは、自国が開発した核兵器を自発的に廃棄した世界で唯一の国である。決断の背景には次のような理由がある。つまり、国家間や地域間に派生する対立を解決し、長期にわたる真の安全保障をもたらすのは、国家の能力にあると信じたからである。

 1994年4月に行われた南アフリカ初の完全に民主的な選挙に勝利して以来、アフリカ民族会議(ANC)政権は、デクラーク大統領が着手した核軍縮と核不拡散の取り組みを誠実に踏襲し、推進している。ANCは「南アフリカ大量破壊兵器不拡散評議会」を設立。核軍縮やその他の大量破壊兵器に関するあらゆる活動を統括している。南アフリカは、すべての主要な不拡散条約に加盟し、誠実に遵守するとともに、核兵器全廃を求めるうえでアフリカや国際社会の先頭に立っている。

 世界的核戦争の脅威は、1989年に冷戦が終結して以来遠ざかっている。しかし、核戦争の脅威が弱まる一方で、核兵器がならず者国家やテロリストたちの手に渡る危険は増大している。国際社会は核兵器について無関心ではいられない。さらなる拡散を食い止め、核保有国が自らの責務を遂行し、核兵器を管理、制限し、やがては廃棄するよう働きかけていかなければならない。

 人類が、究極的に核兵器を廃絶するという歴史的挑戦に勝利するならば、「ヒロシマの教訓」が人類史上において、重要な役割を果たしたことになるだろう。そして、広島の人々の死は無駄ではなくなるのである。

(2009年8月10日朝刊掲載)

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