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社説・コラム

ヒロシマと世界:アメリカ人の原爆認識 投下正当化は危険な考え

■ダニエル・エルズバーグ氏 元国防総省職員・平和運動家(米国)

エルズバーグ氏 プロフィル

1931年4月、イリノイ州シカゴ生まれ。1962年、ハーバード大学で博士号(経済学)取得。1959年から、シンクタンクのランド・コーポレーションの戦略アナリストに。国防長官及びホワイトハウスのコンサルタントとして、核兵器、核戦争計画などを専門に扱う。1945年から68年にかけてのベトナムに関する米国の政策決定の極秘調査に携わる。1969年、ベトナム戦争に関する米国政府のやり方に不信感を抱き、「ペンタゴン・ペーパー」として知られる7000ページにおよぶ報告書のコピーを上院外交委員会に手渡し、1971年には主要新聞に暴露した。12件の重罪に問われ、115年の刑期の可能性もあったが、その訴えは1973年に棄却された。ベトナム戦争後は、講演や執筆活動を行うほか、核時代の危険性や米国の間違った武力介入反対を説き、愛国的内部告発の必要性を訴える運動を続けている。

アメリカ人の原爆認識 投下正当化は危険な考え

 原爆製造の「マンハッタン計画」の関係者を除けば、私が核時代のもたらす試練に初めて気づいたのは、米国の大多数の人々とは違っていた。1945年8月6日より9カ月前のことであり、まったく異なる状況においてであった。

 それは1944年の秋、中学3年の社会科の授業でのことだった。私は13歳で、ミシガン州ブルームフィールドヒルズにある私立学校クランブルックで、全額奨学金を受け寄宿舎生活を送っていた。そこで、社会科のブラッドリィ・パターソン先生が、当時社会学でよく知られていた概念であるウィリアム・オグバーンの「文化的遅れ」について教えてくれた。

 この概念とは、人間の社会的・歴史的進化における技術の進歩は、通常、他の文化的要素である行政機構、価値観、習慣、社会や私たち自身への理解などと比べ、より速く、はるか先まで進んでしまうというものであった。実際、「プログレス(進歩)」という概念そのものが、主として技術のことを指している。

 このことを例証するため、パターソン先生は間もなく現実ものとなるかもしれない技術的進歩を提示した。ウラン同位体の一つであるウラン235で爆弾をつくることが今や可能であり、戦時下の当時使用されていた最大の爆弾と比べ、1000倍の爆発力を持つと私たちに教えてくれた。ドイツの科学者が1938年末に、ウランが核分裂により分裂し得ること、それにより莫大(ばくだい)なエネルギーが放出されることを発見していた。パターソン先生は、科学技術が人間の社会機構を大きく先行する一つの可能性として、この見込まれる進歩を生徒たちに示したのである。

 では、一国、もしくは数カ国がこの技術を爆弾に応用する可能性を追求し、成功したならばどうなるだろう。このことが人類に対してどのような意味合いを持つことになるのか。この技術は今日の人類や国家によってどのように利用されるのか。結局のところ人類にとって善だろうか、悪だろうか。例えば、平和を推し進めるのに役立つのか、それとも破壊を進めてしまうのか。私たち生徒は、1週間かけてこの問題に関する短いリポートを書くことになった。

 私は、数日間考慮した末に到達したリポートの結論を思い出す。記憶しているところでは、クラスのほとんどの生徒がほぼ同様の判断を下していた。そうした結論に達することはほぼ明白であった。

 このような爆弾の存在は人類にとって不幸なことである、というのが私たち全員の結論であった。人類は、こうした破壊力に対処し、安全かつ適切に管理することなどできない。そのような力は、乱用されるであろう。危険かつ破壊的な方法で使用され、恐るべき結果を引き起こすであろう。第2次世界大戦でドイツ軍が先にロッテルダムやロンドンを空爆したように、当時、原子爆弾を持たない連合国軍は、ドイツの諸都市を破壊するため全力を尽くしていた。私たちは知らなかったが、その数カ月後、米陸軍航空隊は日本のすべての主要都市を破壊する作戦を開始し、焼夷(しょうい)弾で都市部に住む人々を焼き尽くすことになっていた。ウラン235の爆弾をもってすれば、文明が、恐らく人類そのものが破滅の危険にさらされることになるだろう。

 原爆の威力はあまりにも強力すぎる、と私たちは考えた。街の一区画すべてを破壊できる爆弾がすでに存在しているというだけでもひどいことであった。この爆弾は「ブロックバスター」と呼ばれた爆弾で、10トンの高性能爆弾であった。この1000倍もの威力を持ち、一つの爆弾で1都市が破壊されるような新型兵器など人類には必要ない。

 この結論は、だれが爆弾を所有するのか、何カ国が持つのか、だれが先に手にするか、といったことはあまり問題にしていなかった。記憶の限りでは、私たち生徒は、当時継続中だった戦争の結果に影響を与えるほど原爆製造が早く実現するとは思わず、この問題を扱っていたのである。ドイツ人が最初に科学的な発見をしたと教わったことから、ドイツが最初に入手するだろうと思われた。しかし、私たちがこの問題に否定的結論を出したのは、必ずしもこれがナチス・ドイツの爆弾になると考えたからではない。結局のところ、民主主義国家が最初に入手したとしても、悪い開発だと考えたのである。

 リポートを提出し、授業で議論をして何カ月もたってから、私はこの問題に再び思いをはせることになった。私はそのときのことを覚えている。

 デトロイトの8月の暑い日だった。私は街角に立って、新聞売り場に置かれたデトロイト・ニューズ紙の一面に目をやった。「1発の米爆弾、日本の都市を破壊」。こう書かれた見出しを読んでいるとき、路面電車がガタガタ音を立てながら走って行ったのを覚えている。最初に脳裏をよぎったのは、その爆弾がまさに何であるか私は知っているということだった。前年の秋に学校で話し合い、リポートを書いたウラン235の爆弾であった。

「アメリカが先に手に入れた。そして、使ったのだ。都市に対して」と私は思った。

 人類にとって実に不吉なことが今まさに起こったという恐怖感を抱いた。14歳の私が初めて体験するその感情は、わが国が途方もない過ちを犯したのではないか、というものであった。9日後に戦争が終わったことはうれしかったが、だからといって8月6日に私が感じた最初の反応が間違っていたと思うことはなかった。

 原爆投下当日やその後も、ラジオで聞くハリー・トルーマン大統領の口調に不安を感じたことを覚えている。大統領は、原爆開発競争に勝利し、日本に対するその効果に歓喜していた。当時もそしてその後も、私はおおむねトルーマン大統領を尊敬していたが、声明を出すたびに聞く大統領の声に関心の欠如や悲劇への感覚のなさ、絶望感や未来への恐れがみじんも感じられないことに当惑せざるを得なかった。私にとって原爆投下の決定は、苦悩のうちになされたものであるはずだった。しかし、トルーマン大統領の態度や公式声明文の調子からは、それを感じることはできなかった。

 このことから私は、米国の指導者たちは自らがつくった前例がもたらす事態の重大さや、未来に対する不吉な意味合いを理解していないのだと思った。そして、この明らかな認識のなさこそが恐ろしかった。私は何か不吉なことが起こったのだと確信していた。原爆製造が可能になったことは人類にとって不幸なことであり、その使用は、目先の恩恵が否定的側面を相殺し、上回ることがあろうとも、長期にわたり悪影響を及ぼすことになるだろうと思った。

 地上には今なお2万個以上の核兵器が存在し、そのほとんどが起爆装置として長崎型のプルトニウム爆弾を必要とする、熱核融合を伴う米ロの水爆である。こうした世界に身を置きながら64年前を振り返るとき、当時の私の反応は明らかに正しかったのだと思える。

 しかし、前年の秋に級友たちが達した結論も、8月6日に私が感じたような反応も、私たちが道徳的神童であることを示すものではなかった。あの日が来るまでは、恐らく私の級友たち以外はだれも、私たちがしたように1週間をかけて、あるいは1日だけでも、このような武器が人類の将来に長期にわたって与える影響について考えたことはなかったであろう。マンハッタン計画にかかわった内部の関係者でさえ、そのことを深く考えた人はごく一部であった。

 そして、私たちはもう一つの重要な点において、多くの米国民とは一線を画していた。1945年8月に人々が初めて原子爆弾の存在を知ったとき、恐らくマンハッタン計画の関係者と私の級友たちを除いて、だれもが極めて偏った肯定的な文脈でしか原爆について考える機会を持たなかったであろうということである。その文脈とは、原爆が「われわれの」武器であり、ナチスの爆弾を阻止するために開発された米国の民主主義を守る手段であり、2人の大統領により開発が進められ、戦争に勝利し、日本本土上陸という高い犠牲を払うことなく戦争を終結させるために必要不可欠な武器であったというものだ。この主張こそ、米国民にほぼ普遍的に信じられてきたのである。

 1945年8月6日以降に新たな核時代について考え始めたほぼすべての人々とは異なり、前年秋の私たちの態度は、次のような主張や見せかけにより形づくられたり、歪められたりしてはいなかった。つまり、原爆は正義の側に勝利をもたらしたのであり、使用しなければ100万人もの米兵の命と、同数かそれ以上の日本人の命が失われていたほどの功績があるとの主張である。多くの研究に基づき、私は随分と前からこうした主張は誤りであるとの結論を出した。だが、ほとんどの米国人はいまだにそれを信じている。

 当時の大多数の米国人にとって、原爆の行く末に当初いかなる不安を抱いていたにしろ、原爆の使用は正当であったという強力なオーラと、すでに現実のものとなっていた原爆の持つ奇跡ともいえる善への可能性ゆえに、その不安感は、当時もその後も打ち消されてきた。当時を知る多くの人々は、広島と長崎への原爆投下を、何にもまして感謝の念をもって受け止めている。というのも、そのことで日本上陸という危険にさらされることになっていた自身や夫、兄弟、父親、祖父たちの命が救われたと信じているからだ。こうした米国民にとって、またその他の多くの人々にとって、原爆は大量虐殺の道具というより、一種の救世主であり、尊い命の守護者なのである。

 ほとんどの米国人は、広島と長崎の人々が犠牲になったことを、必要かつ効果的なことだとみなしてきた。あのような状況下では、正当な手段であり、実際のところ「正義のテロリズム」であったと考えられている。こうして、1日に行われた大量虐殺としては史上第2、第3となる出来事を彼らは正当化している。最大なるものは、その5カ月前の3月9日(日本時間10日)夜間、やはり米陸軍航空隊が行った東京大空襲であり、8万から12万の市民が焼き殺され窒息死した。この事実を多少なりとも知る少数の米国人たちのほとんどは、やはりこの攻撃も戦時下においては適切であったと考えている。

 大多数の米国人がそうであるように、このような行為を犯罪もしくは不道徳的だと考えないということは、いかなることであれ正当な手段になり得るということだ。最悪の場合でも、必要悪であり、さしたる悪ではないということになる。少なくとも、戦時中に、大統領命令により、米国人が行ったのであれば…。

 実際のところ、私たちは爆弾投下、特に大量破壊兵器を都市に投下したことで戦争に勝利したのだと信じ、その行為はまったく正当であったと信じている世界で唯一の国である。これは、核時代が続いている今日において、極めて危険な考え方である。

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