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社説・コラム

ヒロシマと世界:今こそ核兵器禁止条約の実現を

■ジョディ・ウィリアムズ氏 「ノーベル女性の会」代表(米国)

ウィリアムズ氏 プロフィル

 1950年10月、バーモント州ブラトルボロ生まれ。1974年、同州の国際トレーニングスクールで修士号(スペイン語・ESL)を取得。1984年、ジョン・ホプキンス大学で二つ目の修士号(国際関係)を収める。地雷禁止国際キャンペーンにおける活動により、1997年にノーベル平和賞を受賞。真の平和は武力紛争のない状態を超え、「国家の安全保障」ではなく「人間の安全保障」により定義されるとの考えを貫く。2006年1月より、設立にかかわり現在代表を務めるノーベル平和賞を受賞した女性たちでつくる「ノーベル女性の会」を通じ、平和活動を積極的に推進。ノーベル平和賞受賞者としての信望とネットワークを活用し、平和、正義、男女同権のために活動する女権運動家、研究者、団体に焦点を当て支援している。

今こそ核兵器禁止条約の実現を

 若いころの私は、軍縮といえば決まって核軍縮のことを考えたものだ。私は第2次世界大戦の終わりと、米ソ超大国間の冷戦の始まりからさほど時を経ていない1950年に生まれた。戦争が終わった喜びを味わうには遅く生まれすぎたが、超大国間の核戦争に思いをいたすことから来る恐怖に浸るには十分間に合った。

 私はいわゆる急いで「隠れて覆う」世代、つまり、核攻撃の際、いかに自分を守るかという訓練を受けた1950年代、60年代の小学生の世代であった。警報が鳴ると、できるだけ早く机の下にもぐりこみ、脚を両腕で抱え、丸くなってひざの間に頭を入れ、座り込んだ胎児の姿勢をとるのである。また別の訓練では、全員が体育館に列をなして入り、壁に沿って並び、同様の座り込む姿勢をとった。体育館には窓がなかったので、少なくとも部屋中にガラスの破片が飛び散る心配がなく、より安全だと考えられたのだ。

 ある意味、私はこうした訓練がまったくばかげたものだと気付いていたにちがいない。自分が心底欲しいものは何かを考えてみるとき、一番欲しかったのは自分の家族のための核シェルターであった。完ぺきな構造であれば、もし「邪悪な共産主義者たち」が米国を核兵器で消し去ろうとしても、きっと私たち家族を守ってくれるだろうと考えた。しかし、今度は、核シェルターから出て行くときのことが心配になり始めた。すべてが完全に破壊されているだろう。知っている人は皆死んでいるのだ。それなら、その人たちと一緒に、私が知っている世界とともに死んでしまう方がよいのではないか、とも考えた。

 つまり、同世代やその後の世代の多くの人々と同じように、私は核兵器と核戦争に深い恐怖を感じながら育ったのである。ベトナム戦争の抗議デモに参加し、核兵器の抗議デモにも加わった。やがて冷戦が終わり、核兵器反対のデモを含め抗議デモは次第に衰えていった。核兵器が私の脳裏から消え去ったわけではなかったが、再びそのことを考えるようになったのは、ソ連の崩壊が起こってからであった。しかしながら、私が1990年代の初めに取り組み始めたのは、核兵器の廃絶ではなく、対人地雷の廃絶であった。

 当時多くの人々は、冷戦の終結により国際的緊張が大幅に緩和され、「平和の配当」がもたらされるだろうと考えた。だが、私はそれは幻想だと思っていた。かつて北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官などを務めたアイゼンハワー大統領は、アメリカ国民に、彼が「軍産複合体」と呼んだ存在に対して注意を喚起した。私はその言葉を実に真剣に受け止めていた。大きくて強力な武器が今後も必要であることを正当化し、「唯一残った超大国」としてのわが国の地位を維持し続けるには、世界規模の新しい敵を見つけ出さねばならなかった。

 核兵器廃絶を試みることなど思ってもみないことだった。その代わり、対人地雷禁止という共通の目的のために連帯する非政府組織の国際的連合体の設立を目指してほしいと頼まれた。対人地雷の禁止でさえ望みは薄いと感じたが、何とかなりそうでもあった。仮に地雷を禁止する条約を成立させることができなくても、こうした取り組みは世界中の地雷の犠牲者たちの苦しみを和らげる助けになるだろうと思った。

 この問題について多少知識のある人ならだれもが知っているように、地雷禁止国際キャンペーンは、私たちの想像をはるかに超える成功を収めた。私たちは、当時多くの人が「理想郷の夢」と呼んだ問題に取り組み、必要な政治的圧力を世界中で生み出し、それにより各国政府が単独で地雷問題に取り組み始めることとなった。こうした個々の国々の行動により、必要な機運と十分な政治的意思がはぐくまれ、各国政府が条約の重要性を認識するようになった。同時に市民社会組織、すなわち非政府組織(NGO)が、地雷禁止条約の生まれる過程において強力なパートナーとなったのである。

 人類史上初めて、何十年にもわたり世界中で戦闘に使用されてきた通常兵器が禁止された。市民外交という概念に新たな命が与えられ、地雷禁止国際キャンペーンに携わった人々の功績により、小さくなった今日の世界で、共通の問題を解決する際に役立つ市民外交の重要性が立証されたのである。さらに、市民社会が政府と連携し問題に効果的に対処するというモデルが示されたことで、その他の問題に取り組む人々にも同様のアプローチが可能だという勇気を与えることになった。

 軍縮の分野でもっとも成功した例は、2003年後半に設立された「クラスター爆弾連合」であろう。この連合の圧力により各国政府がノルウェー政府主導のもとにまとまり、クラスター弾を禁止するための交渉を始めた。再び、非政府組織と有志国の連携により、「クラスター弾に関する条約」が2008年に成立した。任せきりにしていたならば何もしなかったであろう各国政府を動かす鍵は、市民外交であることがここでも立証されたのである。

 地雷やクラスター弾を禁止するための活動は「ミクロ軍縮」とも呼ばれているが、これは必ずしも褒め言葉ではない。核兵器廃絶の方がはるかに手ごわい課題であることは間違いない。しかし、核廃絶は不可能な目標では決してない。2008年に、すべての核保有国(北朝鮮を除く)を含む21カ国で行われた世論調査によれば、大多数の国民が核兵器のない世界を圧倒的に支持している。

 私は、ほかの多くの人々と同じように、人類は今、歴史的岐路に立っていると信じている。ヘンリー・キッシンジャー、ジョージ・シュルツ、ウィリアム・ペリー、サム・ナンといった米国の冷戦戦士たちが2007年1月、そして再び2008年にも、核兵器廃絶に向けて米国が世界をリードすべきだと呼び掛けた。こうした動きに接するとき、確かな変化が起きていると感じられる。大統領候補だったバラク・オバマ氏が公約に核廃絶を掲げて選挙キャンペーンを行った際、私たちは勇気づけられた。今、大統領として、オバマ氏は核廃絶を外交政策の中心に据えている。そして、米ロはそれぞれが保有する核兵器の削減交渉を始めた。

 核兵器禁止条約を成立させる鍵となる重要な要素は、世界各地で市民社会が積極的かつ組織的に関与することである。核兵器禁止に向け高まり始めた機運をとらえ、さらに強力で勢いのあるものにするような市民社会による、深くて広い持続的な活動なしには、政治的意思は見かけよりもずっと早く消え去ってしまうだろう。世界の核競争を阻み、核兵器のない世界で持続可能な平和と安全を構築し始めるという、一生に一度のこの機会を逃すならば、私たちはいとも簡単に反対の方向へと傾斜し、より多くの国家による新たな一触即発の軍拡競争を目の当たりにすることになるだろう。そうなれば核兵器が使用される可能性は飛躍的に高まる。

 広島と長崎の二つの都市は核攻撃の惨禍を体験している。ヒロシマはあってはならなかった。2度目の長崎への核攻撃は、恐らくヒロシマ以上に非難すべき、理解し難い行為である。ヒロシマやナガサキが決して繰り返されることのないよう、私たちは尽力しなければならない。決して、どこであっても。

 私は2006年8月に、広島を1度訪れた。爆心地に立ったとき、何十年も前の8月6日に一瞬にして命を失った人々の魂が、そこを訪れるすべての人々にあのようなことを2度と起こさないようにと懇願するのを確かに感じた。もし私たちがやらなければ、誰がやるというのだろう。もし今やらなければ、決してなされないであろう。私たちはこの「決してなされない」ということが起きるのを、断じて許してはならない。私たちは力を合わせ、この歴史的瞬間をしっかりととらえ、核兵器のない世界を実現する機会が失われることのないようにしなければならない。世界中の国々が、明確かつ検証可能で、普遍的に順守される核兵器禁止条約の成立に向け、迅速に行動するよう努力しなければならない。

(2009年9月14日朝刊掲載)

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