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社説・コラム

オバマ米大統領 ノーベル平和賞受賞演説 「戦争」正当化に危うさ

■センター長 田城 明

 日本時間の10日夜にあったノーベル平和賞授賞式でのオバマ米大統領の演説を複雑な思いで聞いた。原爆を使用した国としての「道義的責任」に触れ、「核兵器なき世界を目指す」と訴えた4月のプラハ演説のときに感じた強い共感と高揚感は覚えなかった。テレビ画面に映るオバマ氏の表情も、プラハ演説のときよりもはるかに硬く見えた。

 その理由は「ノーベル平和賞に値する仕事をしていない」「受賞は早すぎる」との批判を意識した冒頭の演説内容に表れていた。さらにイラクとアフガニスタンでの二つの戦争を遂行する戦時の「軍最高司令官」として、スピーチの大半が戦争と平和に関するオバマ大統領の視点、考え方を伝えるものであったからだ。

 オバマ大統領の誕生が、ブッシュ前政権下で停滞、後退していた核軍縮に弾みをつけ、被爆地をはじめ世界に大きな希望を与えたことは事実だ。前政権の一国至上主義政策から国連を重視した多国間主義を取り、宗教や文化の違いなど多様な価値を認めながら、人類が抱える共通の課題に取り組もうとする姿勢も世界の多くの市民の共感を呼んだ。

 イラク戦争を始めたブッシュ前大統領は、サダム・フセイン政権下のイラク人に「かかってこい」という挑発的な言葉を発した。それに比べれば、オバマ大統領は戦争についても、非暴力抵抗主義を貫いたインド独立の父、マハトマ・ガンジーや、米公民権運動の黒人指導者、マーティン・ルーサー・キング牧師に触れ、「彼らが唱えた愛、そして人類の進歩にかけた彼らの信念は、どんなときもわれわれの旅を導く北極星でなければならない」とたたえた。

 だが、その一方で非暴力がすべての問題を解決するわけではないと、アフガニスタンへの3万人の米兵増派を正当化した。

  「国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない。私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない」

 オバマ氏は、非暴力運動で「ヒトラーの軍隊を止められなかった」と指摘。同じレベルで「交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。ときには武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ」と強調した。

 私もウサマ・ビンラディン率いる国際テロ組織アルカイダに対して、素手で向かえるとも思えない。ただ、アルカイダや、アフガニスタンの一勢力のタリバンが本当に「米国の脅威」になっているのか。巨大な軍事力を行使しなくてはならないほど、相手は強力なのか。もう少し冷静な対応があり得るのではないか。

 米軍による空襲などで、どれほど多くの罪なきアフガニスタン人が死んだり負傷したりしているか。そのことが、米国や米国人への反感を生み、新たなテロリストをつくり出しているかに思いをはせる必要があるだろう。

 元をただせば、アルカイダもアフガニスタンへの旧ソ連軍の侵攻と戦うために、米中央情報局(CIA)などが中東各地からムジャヒディーン(イスラム聖戦戦士)を集め、武器や資金を与えて育てたのである。

 アフガニスタンの大多数の市民が求めているのは、家族とともに平和に暮らし、十分に食べ物があることだと、研修で広島を訪れたアフガニスタ人に聞いたことがある。それができないから土地を放棄し、難民となる。武装グループに誘われ、武器を取って戦うことが生きる手段ともなっているのだ。派遣される若い米兵の中にも、「生きるための手段として兵士になった」というケースも決して少なくない。

 住民が自立できるようなアフガン復興のための民生支援と、政府指導部や官僚たちの間にはびこる汚職を追放しなければ、軍事力だけではアフガニスタンに平和をもたらすことはできないだろう。

 オバマ大統領は、演説であらためて、「核兵器なき世界」の取り組みが急務であり、核拡散防止条約(NPT)は「外交政策の要」と強調した。こうした姿勢を強く支持したい。だが、懸念されるのは、アフガニスタンへの米兵増派によって、核軍縮・廃絶を強く支持してきた米国のリベラル層が離反しつつあることである。

 一方で保守層はノーベル平和賞を受賞したことにさえ「核交渉の足かせになる」などと批判を強めている。「ブッシュの戦争」から「オバマの戦争」になってしまったアフガン戦争が、米市民が懸念する「ベトナム戦争の二の舞い」になってしまったなら、さらなる求心力低下は免れず、核軍縮・廃絶への道のりも遠ざかってしまうだろう。

(2009年12月12日朝刊掲載)

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