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社説・コラム

ヒロシマと世界:米戦術核配備のNATO諸国 撤廃へ動き拡大

■スーシー・スナイダー氏(ドイツ) 「パックス・クリスティ」核軍縮プログラムリーダー

スナイダー氏 プロフィル
1977年1月、ドイツ・フランクフルト生まれ。1996年、米マサチューセッツ州のクラーク大学(コンピュータープログラミング、英文学専攻)卒業。1997年から米国の先住民たちが組織する反核団体「シュンダハイ・ネットワーク」のプログラム・ディレクター。2003年から婦人国際平和自由連盟国連事務所長、2005年から同連盟ジュネーブ本部国際事務局長を務める。2010年からオランダ最大の国際的非政府組織で、平和・和解・正義を求めて活動する「パックス・クリスティ」の核軍縮プログラムリーダー。


米戦術核配備のNATO諸国 撤廃へ動き拡大
 

 「核兵器のない世界」への私の旅は、ラスベガスから約100キロ離れたネバダ砂漠から始まった。1997年7月初旬の暑い日だった。その前年、米国は包括的核実験禁止条約(CTBT)に調印したにもかかわらず、臨界前核実験を行おうとしていた。この実験は、CTBTの下で技術的には合法だが、条約の精神には明らかに違反しており、当時のクリントン大統領に核拡散防止条約(NPT)が求める核軍縮義務を果たす意思があるのかどうか疑問の声が上がっていた。

 10数人がネバダ核実験場のゲートに集まっていた。米本土にあるこの核実験場では、より大型で破壊力のある核兵器を求めて旧ソ連との軍拡競争が続くなか、大気圏と地下で何度も核爆発が繰り返されていた。参加者には陸軍や海軍の退役軍人、弁護士、活動家、先住民らあらゆる分野の人々がいた。私たちが集まったのは、ウエスタン・ショショーニー族の精神的指導者コービン・ハーニー氏の呼びかけに応えてのことであった。

 ウエスタン・ショショーニー族は、米政府との間で結ばれた1863年の「ルビー・バレー条約」により、部族の領土の一部として核実験場となった土地を与えられていた。ハーニー氏は、1940年代後半、核実験場造成のため、銃を突き付けられ移住を余儀なくされた。参加者に語った彼の言葉は明快だった。「ここは私たちの土地だ。未来の世代のために守らなければならない」

 米国と英国が行った核実験により、この土地は今後何世代にもわたり居住不可能な場所になっていた。しかし、ハーニー氏は、十分な時間と、真の意味で包括的な核実験禁止が実現すれば、土地は自然に治癒すると信じていた。そこで米国が核兵器開発計画を続行していることに反対の声を上げ、実験場の閉鎖と汚染除去作業の開始を要求するために実験場に集まるよう人々に呼び掛けたのである。

 ハーニー氏は土地のために祈り、核兵器について決断を下す人々のために祈った。核兵器が存在しない方が世界はより安全になるという彼の確信は、精神性、環境、法的要素を併せ持った広い視野に基づくものであり、人々を鼓舞した。

 広い視野を持って核兵器のない世界を達成する。その考え方はハーニー氏が私に教えてくれたことであり、それ以来、私の仕事に影響を与え続けてきた。核兵器のない世界を実現するには、しかるべき時期が到来した際に行動できるように、法的、技術的、政治的要素を整えておく必要がある。

 核軍縮に関する技術的専門知識は増え続けている。核兵器開発計画の放棄を選択した南アフリカやブラジルのような国々の核武装解除から学んだ知識は、技術的議論に大きく貢献した。ノルウェー、英国、非政府組織「VERTIC」が現在行っている核軍縮査察に関連した研究も、こうした知識を増加させている。核廃絶への道は、技術的専門知識に関しては整っている。

 核兵器のない世界を実現するための法的課題にかかわる知識も、ここ数年の間に飛躍的に増加した。化学兵器や生物兵器を含む他の兵器システムに関する交渉は、核兵器廃絶に向けての交渉の土台となり得る枠組みを提供してくれている。こうしたプロセスからも、また対人地雷やクラスター弾のような兵器を禁止するための交渉からも、多くの知識が得られている。核兵器に関連した法的交渉の課題は、当然、対人地雷交渉に関する課題とは異なる。しかし、定義づけや発効の合意要件などの交渉過程から得られる知識は、核兵器を禁止するための交渉に適応可能である。

 残る課題は、政治的な要素である。政治的意思こそ、困難な法的・技術的問題を解決するために必要な勢いを生み出すのである。現在、核兵器のない世界を実現しようとする国際的な政治的意思はさらなる広がりを見せ、主流となってきている。

 まず、2007年1月4日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載された、米国の安全保障政策に携わった4人の元政府高官たちによる提言がある。ジョージ・シュルツ、ウィリアム・ペリー、ヘンリー・キッシンジャー、サム・ナンの各氏は、かつて「4人組」あるいは「(黙示録の)4騎士」として知られた人物であった。意義深いことに、この4人は、単なる大幅削減や「最小限抑止」を提言したのではなく、核兵器が今後使われる危険性をなくすには、核兵器の「廃絶」が唯一の解決策だと考えた。米国では、存命の元国務長官、元国防長官、元国家安全保障担当補佐官の約3分の2がこの提言を支持している。さらに、英国、フランス、ベルギー、イタリア、ドイツ、オランダの他の「4人組」による声明により、核兵器のない世界を求める声は大きく広まった。

 ドイツ、イタリア、ベルギー、トルコ、オランダには、約200発の米国の核兵器が配備されている。オランダを含む数カ国は、戦時にはこれらの核兵器を使用するために自国の戦闘機や搭乗員の提供を許可している。ギリシャは2001年に北大西洋条約機構(NATO)の「核攻撃ミッション」から脱退した。2005年には、ドイツのラムスタイン空軍基地から核兵器が撤去された。NATO諸国の指導者たちは、核兵器を受け入れている国もそうでない国も、NATOの「核シェアリング」に終止符を打ち、抑止の考え方を変えるよう声を上げるべきである。そして、核兵器のない世界を追求するという政治的意思を示すべきだ。

 ドイツ政府は、米政府と協議を重ね、自国が受け入れている核兵器をなくす方向に動いている。その実現には、核兵器を受け入れている他のNATO諸国からだけでなく、国際社会からの支持が必要である。ドイツのこの決断は、NPT再検討会議の成功と関連し、同時に新たなNATO戦略構想に関する議論の必要性ともつながっている。だが、それは米ロの核軍縮交渉とは関係しないことにも注意を向けることが重要である。NPT再検討会議の前に撤退の決定を下すことの政治的影響は、これらの兵器が時代遅れで、使用不可能な抑止力しか提供していないという政治的な意味合いよりはるかに大きい。

 オランダでは昨年11月、ルード・ラバーズ元首相、マックス・バン・ダー・ストイル元外相、ハンズ・バン・ミーロ元防衛・外相、フリッツ・コータルズ・アルティーズ元法相という4人の著名な政治家たちが、自国の有力紙「NRCハンデルズブラッド」で、「核兵器のない世界を達成するというオバマ大統領の目標を支持することで強固な同盟を示さねばならない」と表明。「抑止の本来の目的は、有効性を失ってしまった」と指摘した。

 NATO加盟国は、「戦略外交政策評価」の中で、何を脅威とみなすかを現実的に検討し、戦術的核兵器がそうした脅威を抑止するだけの役割があるかどうか問う必要がある。今日、ヨーロッパの大多数の人々は、ヨーロッパにおける核戦争など到底想像できない。ヨーロッパ大陸における国家間の地上戦でさえ、欧州連合(EU)のほとんどの高校生にとっては、歴史上の出来事にしかすぎない。

 現在、想定される脅威は、「他の国々」よりはるかに定義の不明確な主体によるもの、すなわち、テロや気候変動、経済的不安などであり、核兵器はこれらの脅威から私たちを守ってくれはしない。

 NPT再検討会議の前に、ニューヨーク市内で「Disarm Now! (今すぐ武装解除を!)」という国際会議が開催される。この会議を主催するのは、世界中の何十もの団体であり、各大陸から参加者が集まるとみられる。この会議は、4月29日に予定されている非核兵器地帯に関する市民社会フォーラムと、翌30日の非核兵器地帯加盟国会合の直後に開かれる。

 NPT再検討会議は、世界中の市民が核兵器のない世界実現に向けて力を合わせるためにニューヨークに結集し、市民社会の政治的意思を発揮する刺激的な機会である。非政府組織(NGO)間の協力関係を強化し、軍縮への政府の行動を促し、核兵器廃絶交渉に付随するさまざまな課題に対して十分な分析資料を提供するために、何十ものイベントが計画されている。これらのイベントは、各国の大都市で行われる支援行動とあいまって、成功への環境を醸成するだろう。

 NPT再検討会議の結果にかかわらず、市民社会による活動は、一年を通して続けられる。再検討会議前の盛り上がりが消えてしまわないように、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)は、6月5日に世界中で運動を繰り広げるよう呼びかけている。著名な「4人組」は声明を出して、核兵器のない世界を呼びかけ続けるべきであり、各国政府は「グローバルゼロ」の行動計画やモデル核兵器禁止条約について十分に注意を払い、思慮深く検証すべきである。

 核兵器の脅威を絶つための交渉は、気候変動によってもたらされる脅威を絶つための交渉よりはるかに容易なはずだ。今こそ、核兵器廃絶への道を共に歩むべきときである。

(2010年3月1日朝刊掲載)

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