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社説・コラム

ヒロシマと世界: 被爆地の声 非核と平和、復興と再生、許しと命の尊厳訴え

■ロニー・アレキサンダー氏(米国) 神戸大学大学院教授

アレキサンダー氏 プロフィル
 1956年5月、ロサンゼルス市生まれ。エール大学卒業後、1977年に来日し、広島YMCAで5年間勤務。1984年、国際基督教大学大学院で修士号(行政学)を修め、1989年に上智大学大学院で博士号(国際関係論)を取得。同年、神戸大学法学部助手となり、現在同大大学院国際協力研究科教授。専門はトランスナショナル関係論・平和学。多数の論文のほか、日英両語の絵本『ポーポキ、平和って、なに色? ポーポキのピース・ブック1』『ポーポキ、友情って、なに色? ポーポキのピース・ブック2』を出版。2006年に全身を使って平和を想像し、創造するための「ポーポキ・ピース・プロジェクト」を創設。平和運動家・教育者・研究者として活躍中。


被爆地の声 非核と平和、復興と再生、許しと命の尊厳訴え
 

 「ヒロシマ」って、なに色? ある被爆者は「原爆はピッカっと真っ白」。もう一人は「原爆に色をつけることはできないが、長崎から帰省したときの真っ青な空と海が平和の色かな」と。また別の人は「冷たいような、硬いような、人工的に感情がないような暗い色」。あるいは「涙色や、一瞬にして打ち砕かれた人々の夢や希望の破片から出るかすかな光」とたとえる人もいる。

 いままでと全く違う世界を体験してみたいという夢を抱いていた私は、大学卒業直後に日本で働くチャンスに飛びついた。その後、勤務先は広島だと聞いて、衝撃と不安のあまりに涙を抑えることができなかった。ヒロシマのきのこ雲は知っていたが、その実態を想像できなかった。私は広島の人たちにきっと嫌われるだろうと思った。そこで果たして友達はできるだろうか? 被爆した広島は本当に安全だろうか? もしかして…。

 広島での滞在は、当初予定していた2年が5年にも延びた。大学院入学のため、その後被爆地を離れたが、30数年がすぎた今も、「ヒロシマ」の体験は、私の研究・教育活動や平和運動の大事な基盤となり、心の支えにもなっている。私にとって、原爆ドームや平和記念公園、原爆資料館以上に、毎年8月6日夜に開かれる灯籠(とうろう)流しが、ヒロシマの精神や意味をよく表しているように思える。もともと灯籠流しは、原爆で犠牲となった人々の霊を慰めるために始まった。しかし、今ではそれだけでなく、原爆がもたらした惨禍に対する涙を、希望や夢に変える未来へのメッセージとなっている。

 「ヒロシマ」には、世界へ発信する声が三つあるように思う。その一つが灯籠流しのように、原爆による絶望や恐ろしさを平和のためのエネルギーに変え、核兵器のない世界のために行動することを呼び掛ける声である。その声は、核兵器による問題解決を二度と繰り返さないと決断することで私たちに生を選ぶか、それとも死と破壊への道をたどり続けることで生に幕を閉じるかという、事実上選択の余地のない選択を迫っている。

 それは、特定の個人や所属ではなく、いのちがいのちであるがために価値があるという主張であり、人類のみならず、地球上のすべての生き物の将来を守るために、責任ある行動を呼び掛ける国を超えた声である。ヒロシマを思うことは、無限にあるいのちの多様性、美しさや豊かさを認識することである。

 ヒロシマの二つ目の声は、復興と再生の声だ。70年間、草木が生えないといわれた広島だが、翌年には被爆した木の枝に生えた芽が春の到来を告げた。生存、復興、再生は可能である。だが、それにはたゆまぬ努力や精神力を必要とする。ヒロシマの意味は、心身に刻まれた深い傷だけではない。傷つけられ、焼かれた身体。記憶に焼きついた恐ろしいイメージや治らない傷あと。失われたいのちや財産に対する多大な悲しみ。そして、いつまでも続く、長期的かつ世代を超える影響に対する恐怖感でもある。

 この二つ目の声の中に、無知や恐怖の幕に隠された「もう一つ」のヒロシマの声がある。広島の市民は、戦争の記憶を後に残して前進しようとする日本による差別と排除を体験したが、同時に日本社会の矛盾にも囲まれていた。体に深い傷を負った被爆者は、「うつる」との恐怖心から、銭湯で避けられた。被爆者の父母や祖父母は、子どもや孫の就職や結婚を心配して、被爆体験について沈黙を守る人が大勢いた。

 日本の社会に見られる重層的な人種主義による憎しみや恐怖心のために、苦しめられた被爆者もいる。朝鮮半島から強制連行され、日本の戦争のために働かされた人たちを含む、多くの朝鮮人である。

 戦争は終わったかもしれないが、核兵器使用の決定は、生と死を管理する政治の産物であり、それに伴う影響は、被爆者らの身体の中で続いている。ヒロシマを思うことは、その一瞬の爆発による放射線が永遠に体に残ることを確認することだけではない。戦争の前提となる強制や憎しみ、抑圧は、戦争が終わったからといって必ずしも消えるとは限らない。ヒロシマを思うことは、恐怖、貪欲(どんよく)、不正の色を認識することでもある。

 ヒロシマの三つ目の声は、原爆の恐ろしさにもかかわらず、許しは可能だと安心させてくれる声である。昨年、被爆者で長年の知人でもある沼田鈴子さんに会って彼女なりの平和の定義について聞いてみた。

 「被爆から2年間ぐらいは、私の心は憎しみでいっぱいだった。でも、それは私の心も体もむしばんでいた。だんだんと、生きるために憎しみを乗り越えないといけないことに気付いた。…戦いの双方でたくさんの人が亡くなった。…平和は、許しと信頼といのちへの尊厳だと思う」

 沼田さんを含めて多くの被爆者がしたように、グローバル共同体としての私たちは、どうすれば憎しみを許しに変えることができるのか。ヒロシマを思うことは、憎しみは絶望を養成するが、許しは希望を生むということを思い出すことである。それはまた、愛の色の創(つく)り方を学ぶことでもある。

 最初に指摘した「ヒロシマの声」に応え、核兵器の廃絶を世界の人々に呼び掛けたオバマ米大統領は、「核兵器の存在は私たちの安全を高めるものではなく、むしろそれを危険にさらすものだ」という、古くからある考えに新たな正当性を与えた。グローバル市民として私たちは、オバマ大統領がその呼び掛けを実行に移すように働きかける必要がある。

 しかし、同時に、ヒロシマの「もう一つの声」にも応えなければならない。私たちは戦争ビジネスによってもうける人々のネットワークに気づかぬうちにつながっているのだ。そのネットワークから私たち自身を切り離す努力が急務である。

 ヒロシマは単なる歴史ではなく、今日における戦争、武力紛争、占領に続いているのだ。ヒロシマを思うことは、アフガニスタンやパレスチナなどの軍事化に立ち向かうことである。私たちの考え方、生き方、安全保障に対するとらえ方を変えない限り、非核化という目標を達成することは不可能である。

  地上から核兵器を除いても、世界を完全に破壊するほどの武力は既に存在している。多くの国では、食べ物や薬より、いわゆる小型兵器を入手することの方が簡単にできる。とくに「対テロ戦争」以来、軍事化や軍事力による問題解決方法が、世界中のすべての人々の生活に見えない形で浸透してきている。ときに大またで、ときに幼児の小さな一歩一歩で、私たちは徐々に恐怖や偏見、排除という「もう一つの」ヒロシマへと近づいている。

 ヒロシマって、なに色? 想像力、共感、洞察力を使えば、グローバルの絵具箱から探し出せるものを使って新たな色を創造できると思う。国境を越えて複数のアイデンティティーを容認する色。軍事化を超える力強い色。思いやりのやさしい色。常に変化する社会変容や公正な平和の色。それらの中で私たちは、ヒロシマの喜びにあふれる色が発見できるだろう。核兵器のない、私たち自身や次世代、そしてすべてのいのちへの責任に満ちた色を。

(2010年3月15日朝刊掲載)

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