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社説・コラム

原爆で消えた奨励館の30年 広島の顔 食文化に寄与

■広島平和文化センター職員、ヤン・レツル研究家 菊楽忍

 原爆ドームとその前身である広島県産業奨励館に焦点を当て、広島の変遷をみる特別企画展が、広島県立美術館で開かれている。中国新聞の戦前の記事をたどり、原爆で消えた「奨励館30年の歩み」を紹介したい。

品質向上図る

 奨励館はチェコ出身の建築家ヤン・レツルの設計で、1915(大正4)年4月5日、県物産陳列館として落成。れんが造り3階建て、「白亜の高楼」とも呼ばれ、広島の名所となった。

 初代館長の吉田壽信は東京高商(現一橋大)出身のアイデアマンで、「県産酒類の如き(は)品位優良であるから容器を改善すること」(1916年7月2日付)などと、広島産品の振興策を紙面でたびたび披露している。館内を会場に品評会も開催し、品質の向上や生産意欲の高揚を図った。

 県内の芸術家に呼び掛け、1916年には広島県美術協会を結成(6月22日付)。自ら会長となり、流派を超えた審査基準による県美展も主催した。「美観と実用は相反するもので無い」(12月9日付)が持論で、美術は物作りに役立つと説いた。

 当時、第1次大戦に参戦した日本は中国・青島でドイツ兵を捕虜とし、広島沖合の似島収容所に500人以上収容する。それを契機に「似島独逸(ドイツ)俘虜(ふりょ)技術工芸品展覧会」が陳列館で1919年に開かれ、ヘルマン・ウォルシュケはソーセージを、カール・ユーハイムは元祖バームクーヘンを販売。「開設以来の人出」(3月7日付)をみた。

 日本語が話せたウォルシュケは地場のハム工場で技術指導も行った(12月28日付)。2人は解放された後、東京・銀座の明治屋に勤め、独立するとマイスターの技と味を日本に広める。広島にとどまったドイツ人もいた。ワルデマール・アテルは広島製作所(後の日本製鋼所)に就職。館内であった広島経済会例会で「日独労働界比較」といった一般向けの講演もしていた(1920年2月27日付)。

輸出を後押し

 陳列館は1921年に県立商品陳列所と改称。広島産品の博覧会出品や海外輸出を後押しする。東京で1922年に開かれ、英国皇太子も見学した「平和博」では、豊島悦郎館長が上京して飾り付けもした(2月21日付)。広島の木村永進堂が作る缶詰の「敷島漬(福神漬け)」「松茸(まつたけ)煮」は食品部門で金賞牌(しょうはい)に輝く。大正時代、広島の缶詰生産量は日本一だった。

 昭和天皇も皇太子時代に訪れていた。山陽路行啓の1926年5月25日に来館し、館長の峰松眞三郎が広島の物産を説明した。峰松は歴代最長の12年にわたり館長を務めた。館は「満州国」(現中国東北部)などへの輸出促進を狙って1933年、県産業奨励館と改称。祝賀会は羽田別荘で華やかに催された(1934年3月21日付)。

 しかし、日中戦争が泥沼化する中、レツルがデザインした典雅な門扉は金属類回収で供出(1941年6月20日付)。日米開戦から2年後、館内すべてが「戦力増強の決戦事務室」(1943年11月23日付)に充てられ、1943年12月の「聖戦美術傑作展」が最後の催しとなる。奨励館の本来の業務は戦争によって終了させられ、そして1945年8日6日、原爆はこのほぼ真上でさく裂したのだった。

 「廣島から広島 ドームが見つめ続けた街展」は、中国新聞社などの主催で20日まで。

きくらく・しのぶ 
 広島平和文化センター職員、ヤン・レツル研究家。1958年三次市生まれ。広島大大学院社会科学研究科修了。

(2010年9月1日朝刊掲載)

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