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社説・コラム

中沢啓治さん「はだしのゲン」に寄せて 広島大大学院准教授 川口隆行

「平和」問う未完の物語

 唐突に聞こえるかもしれないが、中沢啓治の訃報に記録文学作家の故上野英信を思い出した。エネルギー政策の転換によって衰退の一途をたどった筑豊炭鉱、そこで働く人々を追い続けた彼もまた広島原爆の体験者だった。上野は「私の原爆症」(1968年)という短いエッセーで「私はアメリカ人をひとり残らず殺してしまいたい、という暗い情念にとらわれつづけてきた」と告白し、「この救いがたい、われながら浅ましい妄念そのものを原点として、私は平和を考えるほかない」と断言する。生々しい現場に身をさらすことでしか、内実ある平和は語れないと覚悟したのだ。

 中沢もまた、経済繁栄を謳歌(おうか)する風潮の中で、がれきと屍(しかばね)が堆積する歴史に向き合った。「戦後」という神話、「復興」という幻想に身を委ねることを潔しとしなかった。中沢の最初の原爆マンガである「黒い雨にうたれて」は、くしくも上野のエッセーと同じ年に発表されている。復讐(ふくしゅう)のためにアメリカ人ばかりをターゲットとする殺し屋になった被爆者が主人公。殺し屋はアメリカ人の拳銃密売人と相打ちの末、自分の角膜を盲目の少女に与え、最期を迎える。被爆2世の少女の名は「平和」であった。

 原爆投下について「やむを得ないこと」と昭和天皇が発言したのは、「はだしのゲン」連載中の75年のことだ。中沢はその発言に対抗するかのように、「はだしのゲン」の中でアメリカの原爆投下責任とともに軍国日本の指導者層を糾弾し、植民地支配を問いただした。しかしそれは、安全地帯から加害者を告発するスタイルではない。ゲンをはじめとする登場人物の多くは、家族や仲間を助けられなかった無念とも後悔ともいえる深い罪障感を抱えながら、広島の荒野を生き延びるために精いっぱい格闘する。

 アナーキーなまでに躍動感あふれる彼らの姿それ自体が、被害と加害、善と悪、そして戦争とは平和とはいったいどういうものなのかという問いを、個々の読者に自分自身の問題として突き付けるのである。

 「はだしのゲン」とは、美辞麗句に塗り固められた支配的物語にあらがうことで、歴史の闇に消え去る無数の経験と存在の記憶を取り戻そうとした試みにほかならない。中沢は、空洞化した「ヒロシマ」の「平和」に対する根本的批判者でもあった。「はだしのゲン」の続編はついに書かれることはなかった。その未完の劇の続きは、残された私たちがそれぞれの仕方で書き、語り継いでいくしかない。=敬称略(原爆文学研究会会員)

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 中沢啓治さんは19日死去。73歳だった。

(2012年12月27日朝刊掲載)

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