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社説・コラム

『論』 被爆を知る 実物資料を補うものは

■論説委員 金崎由美

 68年前の8月6日、きのこ雲の下の広島ではどんなことが起きていたのか。証言のほか遺品や被爆した実物資料、手記が若い世代にとって手掛かりになる。

 ところが、あの日の市中心部の画像はほとんどない。中国新聞カメラマンだった故松重美人さんが、爆心地から2・2キロの御幸橋を捉えたモノクロ写真など数枚である。

 絵はたくさん残っている。1974年からNHK広島放送局が呼び掛けたのをきっかけに集まっていった「原爆の絵」。被爆者が自らの瞳に焼き付けた惨状が、カラーで再現される。描き手の葛藤が胸に迫る。被爆当日を描いた作品も多い。原爆資料館が保管し一部を展示。ホームページでも公開している。

 記録の空白を埋める情報でもある。人々が水を求め、防火水槽に頭を入れたまま亡くなった。全身やけどの人を見捨てて逃げるしかなかった―。口述や文字に刻まれた被爆の実態が視覚化される。

 似た役割は原爆資料館のプラスチック製の人形にもあるのだろう。焼けただれた皮膚を腕から垂らし、市民ががれきを逃げまどう様子を3体で表現している。

 人形は資料館の展示見直しに伴い撤去が決まった。東館と本館を大改修し、膨大な実物資料をさらに活用した構成に一新させる。有識者の検討委員会が打ち出した。全面再オープンは2018年度だ。

 人形は印象が強く、子どもがおびえたという話も絶えない。だが広島市や中国新聞などに「被爆者がなぜこんな目にあったのかを知るため必要だ」「目をそらすべきではない」と撤去を疑問視する意見が寄せられている。関心は思いのほか高い。

 私も被爆者に面と向かって言われた。「こういった被害を実物で伝えるのが難しいから、人形で補ってきたのではないだろうか。代替案はあるか」と。重い問いだろう。

 人形展示の是非をめぐる議論は初めてでない。

 傷口まで再現した、ろう人形が最初に据えられたのは1973年。市は「よりリアルに」と、犠牲者の衣服を着せた従来のマネキンの展示から取り換えた。

 当時の本紙記事によれば、むしろ設置に異論が多かったようだ。壮絶な体験を持つ人が多い時代だったからだろうか。被爆者や市民から「生の資料でじっくり考えてもらうべきだ」「あんなもんじゃない、もっとひどかった」と反発が出た。

 人形は91年、さらにプラスチック製となり現在に至る。

 今後の方針はどうか。志賀賢治館長は「被爆した実物資料や、遺族から託された遺品あっての資料館」と念を押す。劣化が進む収蔵品の保存に全力を尽くすと同時に、来館者が資料と対話する場として展示のありようを模索したいという。

 被爆者の高齢化が年を追うごとに進み、体験を証言できる人は少なくなっていく。無言で被害を伝える実物と向き合い、事実を学ぶ空間として博物館的な役割がさらに大切となっていくのだろう。

 ただ現実には、原爆資料館を含めた平和記念公園全体が、犠牲者の慰霊、核兵器廃絶や平和のシンボルという意味合いも帯びる。ゆえに施設や資料への期待や、求められる立ち位置は多種多様である。人や時代によって変わる。到底一つにくくれない。

 学術的な場としては、実物資料の徹底が大前提だろう。だが、それでは表現し切れないヒロシマもある。人類に対して犯した罪への怒りの感情であろう。それをどう伝えていくべきか。人形をめぐる議論は、問い続けるべき課題を浮き彫りにしている。

(2013年4月4日朝刊掲載)

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