×

社説・コラム

社説 核不使用に賛同せず 「被爆国」名乗る資格ない

 耳を疑うとは、このことだろう。核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会に出された「核兵器の人道的影響に関する共同声明」に、日本政府は賛同しなかった。

 70カ国以上が賛同した。なのに日本政府は「いかなる状況下でも核兵器が再び使用されないことが人類生存に寄与する」とのくだりに引っかかった。

 こんな至極当然の論理を拒否するとは、理解に苦しむ。

「核の傘」の矛盾

 これまで不十分ながらも非核外交を貫いてきたのは、ヒロシマ、ナガサキを繰り返してはならないという使命感からではなかったのか。口先だけで核兵器廃絶を唱えても行動が伴わなければ、全てが台無しになってしまう。

 準備委が開かれているスイスで早速、日本政府に抗議するデモがあった。被爆者は落胆した。国際的な批判と失望も、これからさらに強まるだろう。

 現地で天野万利軍縮大使は、松井一実広島市長らに「段階的に廃絶に向けた手続きを重ねる日本政府の方針とは違った」と釈明したという。一気に廃絶したくないのが本音なのだろう。

 米国の「核の傘」に自国の安全保障を依存しているからだ。しかし、そもそも「核の傘」に頼りながら廃絶を訴えること自体が自己矛盾を来している。

 声明を発表した南アフリカ代表団などによると、当初案には核兵器を「非合法」と断じる文言もあったが、被爆国の賛同を期待して削られた。

核武装するのか

 ところが日本政府はさらに、「いかなる状況下でも」の部分に抵抗し、削除を求めたために折り合わなかったようだ。

 外務省はこう強弁している。これまでだったら、はなから声明を丸ごと拒否していた。それが今回は、ぎりぎりまで文言の調整で粘る努力をした。これまでとは違うし、次の機会には賛同する可能性がある、と。

 自己弁護としか思えない。何より「いかなる状況下でも」に反発することは、状況次第では核の使用を認めることと同義ではないか。

 非核外交は破綻したといっても大げさではなかろう。これでは被爆国の発言に、米国以外は誰も耳を貸さなくなる。

 何かと米国寄りへと傾斜する安倍晋三首相にとって、重要視する「核の傘」に比べれば、被爆者や国際社会の批判など取るに足らないのかもしれない。

 あるいは、日本の核武装という選択肢を温存しておきたい思惑が顔をのぞかせたのだろうか。このところ首相や自民党議員に目立つ強硬発言も重ね合わせれば、勘ぐりたくもなる。

 確かに中国の海軍増強や北朝鮮の核開発などによって東アジアの情勢は緊迫し、日本の安全保障環境が揺らいでいるタイミングではある。

 とはいえ視点を変えれば、米国のあまりに強大な核戦力が中国や北朝鮮を軍拡へと突き動かしてきたのは紛れもない事実である。そして「核の傘」は、これらを抑止できていない。

 いま安倍政権がなすべきは、周辺国と「脅し、脅され」の関係を築くことではなかろう。緊張を解きほぐすには、原点に立ち戻って考えるしかあるまい。

 ほかの誰にも、あの苦しみを体験させてはならない―。あれだけの人間が悲惨を見た被爆地は、人類の未来に警告を発してきた。だからこそ為政者は核兵器の使用をためらってきた。

 それはヒロシマ、ナガサキこそが抑止力といわれ、もはや核は使えない兵器とみなされるゆえんでもある。

人道への裏切り

 「核兵器を使わない唯一の方法は完全に廃絶すること」。今回の声明に、ごく当たり前のことが書いてある。賛同しないことは被爆者、さらには人道への裏切りだとの認識が政府になかったとすれば、極めて残念だ。

 「核の傘」に頼らず、東アジアの平和をどう構築するか。真の非核外交への転換と模索を始める機会を安倍政権は自ら遠ざけるばかり。本当にこれが被爆国なのか。もはや政府には、そう名乗ってもらいたくはない。

(2013年4月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ