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社説・コラム

戦時下の人間模様 克明 小山祐士「北海道演奏旅行記」(ふくやま文学館) 

原爆描いた劇作家の素顔

 本土空襲が本格化していた1945年5月22日、海軍出身者でつくる民間の海洋吹奏隊が上野駅から北海道へ出発した。福山市出身の劇作家小山祐士(こやま・ゆうし)(1904~82年)は41歳。隊が属する、わかもと製薬の文化部長として同行している。

 福山市のふくやま文学館にある「北海道演奏旅行記」。小樽や釧路、根室の軍需工場や鉱山、国民学校を演奏して回る2週間と、社を辞める7月20日までの個人日記だ。

 「能なしである。音の世界に対する感覚がないといふべきであらう」「義理も知らない無教養さには、ほとほと愛想がつきる」。口に出さないが、隊員への批判は容赦ない。食事や待遇に不平を言う。するめや数の子の買い出しに走る。社の上層部は無責任。小さな丸っこい文字で、非常時の人間の浅ましさやおかしみを克明に描写する。

 「何げない言動を見逃さず、心中まで見通す観察眼はさすが劇作家」。初代館長の磯貝英夫さん(90)=広島市西区=は感嘆する。戯曲に使えると考えたのか、自分とは違うタイプの人間とも対話し、率直な喜怒哀楽を込めて分析している。

 慶応大に進み、広島市出身の小山内薫が会長の慶応劇研究会へ。同郷の井伏鱒二の紹介で劇作家岸田国士に師事した。福山方言で書いた「瀬戸内海の子供ら」が広島市出身の杉村春子らの好演で35年に大ヒット。プロレタリア演劇とは一線を画す「劇作派」の作家として戦前から活躍した。

 瀬戸内の素朴な暮らしを愛し、詩情あふれる柔らかな方言で、人々の心模様を繊細に編んだ小山。しかし、遺族が寄贈した日記は、作品にはない素顔をさらけ出す。

 文学館は原稿や台本など小山の資料約400点を所蔵し、網羅的なコレクションは国内唯一。日記は二つのノート計106枚を縦21センチ、横18センチの厚紙で挟んで糸でとじる。作家に迫る資料として翻刻し、2005年刊行した。

 「言葉の面白さが魅力だった」と福山文化連盟名誉会長の土肥勲さん(89)。小山は福山や尾道、呉、広島の方言を織り交ぜた独自の言葉でせりふを書いた。「福山弁はフランス語に似ているとよくおっしゃっていた。帰省すると私たちと方言でしゃべるのを楽しんでいた」と懐かしむ。

 北海道への旅を終えて妻の実家がある玉島市(現倉敷市)に疎開した小山は、原爆投下後の広島を目撃した。堕胎を助けた罪を問われる被爆女性が主人公の「泰山木の木の下で」をはじめ、毒ガス製造の島やベトナム戦傷孤児を支える医師など、戦争の傷痕を抱えた人々を丁寧に描いた。

 「決して叫んではいけない。決して理屈をいってはいけない。決して荒々しい跫(あし)音をたててジグザグ行進などをしてはいけない。決して旗を振り回してはいけない」(小山祐士戯曲全集「私の演劇履歴書」から)

 磯貝さんは「原爆や戦争を題材にしながらもイデオロギーではなく人間を描いた」とみる。「だからこそ共感を得た」

 日記には唯一、小山が感激の涙を流す場面がある。5月27日の海軍記念日の宴会だ。明日も見えない若い特攻隊士官が軍艦マーチの演奏で歌い踊り、卓上で箸のタクトを振る姿に心震わせる。大きな力の下で耐える者への共感は作品に通じる。

 62年に宇野重吉演出で「泰山木の木の下で」をヒットさせた劇団民芸(川崎市)。昨年の「冬の花」をはじめ小山作品を近年相次ぎ上演する。

 愛媛県の島で育った演出家兒玉庸策さん(75)は「緻密な人間関係が縦横無尽に描かれ、せりふが練られている。劇文学としての完成度の高さに学びたい」。瀬戸内の言葉と記憶が刻まれた戯曲は、時代を超えて生き続けている。(渡辺敬子)

<ふくやま文学館>
 1999年開館。ふくやま芸術文化振興財団が運営。井伏鱒二や福原麟太郎、木下夕爾、山代巴、林芙美子、中村憲吉をはじめ備後地方ゆかりの文学者の資料収集、研究を行う。企画展を年3回開いている。福山市丸之内1丁目。

(2013年4月26日朝刊掲載)

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