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社説・コラム

『論』 戦争遺跡の保存 どんな視点で語り継ぐか

■論説委員 岩崎誠

 田園風景に溶け込むように、かまぼこ形の構造物があちこち目につく。大戦末期、海軍機を空襲から守るために築かれた「掩体壕(えんたいごう)」。九州有数の穀倉地帯、大分県宇佐市に残る無言の証人である。

 この地に足を運んだのは、戦争の記憶を継承する取り組みで先を行くからだ。市が次々と戦争遺跡を文化財に指定し、住民の協力で平和の大切さを学ぶフィールドとして活用している。この夏は拠点となる平和資料館もできた。

 海軍航空隊の基地が置かれ、終戦の年は神風特攻隊の出撃拠点に。そして米軍の度重なる空襲に見舞われ、住民にも多くの犠牲が出る。そんな負の歴史を掘り起こすきっかけは、市が「平和元年」と位置付けた戦後50年である。

 掩体壕の一つを全国に先がけて市史跡に指定し、平和記念碑を設置して史跡公園に整備した。折り鶴が絶えず、対話ノートに若者のメッセージが書き込まれるさまは広島の平和記念公園を思わせる。

 戦争遺跡マップを手に、一帯を回ってみた。ことし市史跡に指定された「爆弾池」が印象深い。空襲による爆発の跡が直径10メートルの穴として田んぼに残り、終戦後も持ち主があえて埋めずにいたそうだ。悲劇を忘れまい、という住民の思いが静かに伝わる。

 全国的に戦争遺跡の保存運動が本格化したのは1970年代からだ。地上戦の舞台となった沖縄も含め、国や自治体の文化財指定は日本全体で200カ所を超す。ただ保存の取り組みは温度差がある。宇佐市のような積極派は少数であり、開発で消滅の危機にあるものも少なくない。

 直接の体験者が減る中で、現物の重みは増していくはずだ。戦後70年を前に、保存の必要性をあらためて議論するのは当然のことだろう。そこで問われるのはどんな視点で残し、語り継ぐかだ。

 戦争遺跡を「廃虚の美」としてとらえた写真集なども世に出ている。しかし明確な歴史的視点なくしては、保存はおぼつかない。何より必要なのは国家による無謀な戦争の結果、多くの国民が惨禍に巻き込まれた事実をきちんと伝えることであろう。

 一方で別の見方も力を増しつつあるようだ。戦争遺跡というより「軍事遺産」として肯定的にとらえる発想である。陸上自衛隊の幹部教育では沖縄の戦跡や本土決戦に備えた九十九里浜(千葉県)の陣地などを、作戦立案の研究のため実地に生かしていると聞く。残すべきだとする点は同じかもしれないが、不戦の誓いに基づく保存運動とはやはり立場を異にする。

 これから保存を考えるに当たって、住民そして自治体は、戦争が地域に何をもたらしたかをいま一度検証しておくことが求められよう。そのためにも文化財指定は効果的な方法ではないか。単に現状を守るだけではなく平和発信の意思表示につながるからだ。

 原爆ドームが世界遺産となる前提として、国の史跡となったのも95年のことである。だがその後、広島県をはじめ中国地方の自治体が身近な戦争遺跡の文化財指定に熱心だったとは思えない。

 例えば旧陸軍の毒ガス製造工場があった竹原市の大久野島。日本を代表する負の遺産であり、所有する環境省がそれなりに保存と公開の手を打ってきた。当面現状が損なわれる心配はないとはいえ、かつて地元で盛り上がった史跡指定への動きがストップしているのは残念だ。

 シリアの化学兵器問題が注目される今だからこそ再び前に進め、将来にわたって守り残す決意を新たにすべきではないか。そしてその輪を広げていきたい。

(2013年12月5日朝刊掲載)

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