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社説・コラム

『論』 戦時下の「科学学級」 警世の伝言を聞きたい

警世の伝言を聞きたい

■論説副主幹・佐田尾信作

 「間もなく大きな実験があるだろう。一つの都市を焼き尽くす実験だ。その時が来たら、科学を学ぶ者として経過をよく見ておくことだね」

 元毎日新聞記者山野上純夫さん(84)は70年近く前の恩師の一言をよく覚えている。広島大の前身、広島高等師範学校(高師)の付属中「科学学級」に1期生として在籍していた。恩師は当時、広島文理科大教授だった故三村剛昂(よしたか)氏。「その『大きな実験』を爆心から1・5キロの東千田町の校内で体験しようとは」

 日本への核攻撃の予言だったか、それとも他の国での話だったのか。今となっては真意を聞くすべもないが、理論物理学を究めた人ゆえの覚悟だったのかもしれない。

 科学学級は大戦末期、帝国議会に出された「戦時穎才(えいさい)教育機関設置に関する建議」に基づく。「アメリカニ勝ツ、新シイ発明ヲシテ貰(もら)ハウデハナイカ」と求められ、広島、東京、金沢高師などが引き受けた。三村氏や若き日の湯川秀樹氏らそうそうたる科学者が参画しながら、敗戦を挟んでわずか2年余りで閉じる。

 急ごしらえであり、学校内では微妙な位置にあった。一般の学徒が勤労動員される一方で学業に専念できたため、とかく冷たい視線を浴びる。戦後は上級学校への進学が保障されず、「国家による英才教育」という色眼鏡で見られたこともあったようだ。

 10月下旬、東京・青山のホテル。広島、金沢両高師付中の科学学級OB17人が集った。広島は1期から最後の5期までの顔ぶれ。その中で4期の歴史学者で東京女子大名誉教授、大隅和雄さん(81)は「あのような特別な形でしか、もはや教育らしいことは当時できなかったのではないか」と語った。

 1期生は被爆後、文理科大の臨海実験所があった向島(尾道市)で授業を再開。食う物にも苦労したが、その時期の方がよく勉強した、という人もいるのは興味深い。その陰には学問の熾火(おきび)を消すまいという教育者たちの必死の努力があったのではないか。「アメリカニ勝ツ、新シイ発明」がもう不要なら、再開する必要もなかったはずだ。

 三村氏は戦後、「声涙ともに下る」と評される演説で名を残す。1952年の日本学術会議総会の席上、原子力平和利用の調査委員会設置を政府に勧告する提案に対し「米ソの緊張が解けるまで日本は絶対に原子力を研究してはならぬ」と論陣を張った。

 科学者の戦争協力への反省に立って発足した学術会議内部の世論は、被爆者でもあった三村氏に味方したのだろう。「公開・民主・自主」という原子力研究三原則を決する流れがこの時にできる。

 学術会議で三つの原子力関連の委員長を歴任した故坂田昌一氏は、政治の論理で科学の論理を押しつぶすような政策は国家百年の計を誤るものだ、と説いた(遺稿集「坂田昌一 原子力をめぐる科学者の社会的責任」)。坂田氏もまた、三村氏の言に感じ入った物理学者だった。

 科学学級OBは必ずしも科学者の道を選ばず、文系に転じた人もいる。原爆症との闘いの末に信仰の世界で重きをなした人もいれば、核廃絶を訴え続けて異郷のドイツで没した学者もいる。

 ただ、ものの見方をこの時代に学んだという共通項はあろう。山野上さんも「宗教記者が長かった私の基礎はここにある」と言う。先輩であれ後輩であれ分け隔てなく話に聞き入るOBたちの姿に、リベラルな気風を感じた。

 福島原発の事故や「核のごみ」処分の行き詰まり。軍事転用ではなく「平和利用」の名の下に進められてきた原子力政策が破綻した。そんな今の日本へ、科学と科学者はどうあるべきか、彼らに警世のメッセージをのこしてもらいたい気がしている。

(2013年12月19日朝刊掲載)

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