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ポル・ポト特別法廷 政治犯収容所の元所長結審 

■論説委員 石丸賢

 カンボジアの旧ポル・ポト政権下で1万5千人以上を死に追いやった政治犯収容所の元所長、カン・ケ・イウ被告(67)の裁判が27日結審した。なぜ同胞を殺したのか。内戦の傷は深いが、ポト派を断罪する特別法廷に勇気を得た人々も多い。「国民が和解できるかどうか、これからが正念場」と日本政府は物心両面で法廷を支えている。

語られ始めた負の歴史

 「棒で殴られ、足のつめをはがされた」「水さえもらえず、尿を口にしたことも…」。生還者の証言する拷問の様子に遺族らは泣きながら聞き入ったという。消息を絶った肉親の姿を重ね合わせていたのだろう。

 法廷のやりとりは毎回、テレビで生放送された。それでは物足りないのか、今年3月から計72日間の公判で延べ2万4千人以上が傍聴に詰めかけた。

 「裁判がヒーリング(癒やし)プロセスなんです。この国が過去を乗り越え、前に進むためにとても大切」。公募で法廷の広報官となった元国連職員の前田優子さん(45)は言う。

 親中派の共産主義者ポル・ポトは1975年、親米派との内戦を経て首都プノンペンを制圧。旧支配層やインテリを反革命勢力として粛清し、都市住民を強制労働で農村に追い立てた。政権は4年ほど続き、飢えや虐殺で約200万人が犠牲になったとされる。当時の国民のほぼ4人に1人に当たる数だ。

 アンコールワット遺跡近くに住む会社員ホー・リッチーさん(36)は高校の校長だった祖父を殺された。悪夢にうなされる祖母を見てきた。「同じ民族を手にかけるとは、ナチス以上の非道だ」。しかし怒りは胸底に押し込めてきた。親類の中にポト派の元兵士もいたからだ。

 加害者と被害者がない交ぜとなった内戦。親類や家族とさえ腹を割って話ができない。終戦後もなお胸にしこりを抱え続けた。

 特別法廷が風穴を開けたのだろう。被害者を参考人として呼ぶ試みに2千人以上が手を挙げた。大学や高校ではこの秋から、歴史教育でポル・ポト時代についても触れることになった。

 「すべて私の責任」「犯罪者と指さしてもらいたい」。公判のたびに元所長は許しを請い、両手を合わせた。非を認める加害者の姿に「やっと歴史を語れる時代がきた」と涙をこぼす傍聴者も目立ったという。

 プノンペンにある政治犯収容所跡。虐殺博物館として外国人にも公開されている。

 元は高校の校舎。教室が、れんが壁で間仕切りした独房や拷問室となった。一角に犠牲者の顔写真が並ぶ。はにかむような少年に比べ、運命を予感したのか大人の瞳には陰りがのぞく。

 集団の狂気だったのか、イデオロギーが暴走したのか。なぜ歯止めをかけられなかったか。人類の教訓としてもカンボジア現代史にぽっかり空いた空白を埋めねばなるまい。一人一人が抱え込んできた加害、被害の事実に光を当てる法廷の意義は大きい。

 法廷の予算は約8割を国連が負担。加盟国による援助金で賄ってきた。今年6月まで3年半の援助額は約7270万ドル(約65億4300万円)。このうち54%を日本が進んで出してきた。

 日本が1992年、初めて国連の枠組みで自衛隊を送り込んだ国がカンボジアだ。特別法廷を平和維持活動(PKO)の延長線上と位置付け、「和平の総仕上げ段階」と見据えている。

特別法廷
 ポル・ポト政権下(1975~79年)の人道に対する罪や戦争犯罪などを裁く。国連の支援で2006年2月に法廷を開設。これまで元幹部5人を拘束している。二審制で最高裁判事の1人は日本人。

(2009年11月30日朝刊掲載)

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