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平山郁夫氏が死去 文化勲章 日本画の重鎮 79歳 シルクロード主題

 日本画家で文化勲章受章者の平山郁夫(ひらやま・いくお)氏が2日午後0時38分、脳梗塞(こうそく)のため、東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。79歳。尾道市瀬戸田町出身。自宅は神奈川県鎌倉市二階堂120の14。4日に港区の教会で近親者で密葬する。喪主は妻美知子(みちこ)さん。後日、日本美術院が院葬を行う。

 前東京芸術大学長で、日本美術院理事長。仏教伝来や東西文化の交流、シルクロードをテーマに、悠久の歴史をたたえた画風で知られる、日本美術界の重鎮。国連教育科学文化機関(ユネスコ)親善大使として世界の文化遺産保護にも尽力してきた。

 旧制修道中の生徒だった1945年、学徒動員先の広島市内で被爆。九死に一生を得た。大伯父の彫金家、清水南山の勧めで、東京美術学校(現東京芸術大)に進み、前田青邨らの指導を受けて1952年に卒業。翌年、「家路」で院展に初入選して以後、入選を重ねた。被爆の後遺症に苦しみながら、1959年、玄奘三蔵をテーマに「仏教伝来」を制作。玄奘の苦難と自らの人生を重ねるように、仏教の道を取材し続け、連作を発表した。

 東京芸大の遺跡調査団として1966年にトルコを訪れたのを機に、シルクロードをテーマに制作を展開した。

 法隆寺金堂や高松塚古墳の壁画を模写するなど、仏教文化や文化財の保存修復に尽くす。海外の文化財にも目を向け、敦煌(中国)や高句麗壁画(北朝鮮)の保存など文化外交にも貢献した。「文化財赤十字」活動を提唱し、仏教遺跡バーミヤン(アフガニスタン)など不安定な情勢で危機にある文化遺産の保護を訴えた。

 原爆を描いた「広島生変(しょうへん)図」のほか「月華厳島」「平成洛中洛外図」など、幅広い画題の作品を発表した。96年から日本美術院理事長を務め、1998年に文化勲章を受章した。東京芸大学長は1989年からと2001年からの、計10年間にわたって務めた。広島県名誉県民、広島市名誉市民など。

 郷里の瀬戸田町に97年4月、平山郁夫美術館がオープン。山梨県には平山郁夫シルクロード美術館もある。「平山郁夫美術館賞 絵画コンクール」(中国新聞社など主催)で最終審査をしていた。

 今年10月下旬、脳梗塞の疑いで検査入院。当初は絵筆を握っていたが、数日前に容体が悪化したという。

県の文化発展に尽力  広島県の湯崎英彦知事の話 

 「名誉県民」である平山先生の悲報は、郷土が誇る偉大な芸術家との惜別であり、大きな悲しみ。世界各地の文化遺産の保護活動のかたわら、県立美術館の名誉館長に就任していただいたほか、平山郁夫美術館が開館されるなど県の文化芸術の発展に尽力された。終生にわたる芸術への情熱、ふるさとへの思いは、末永く受け継がれると確信しています。


平山郁夫氏死去 被爆体験が原点 ドーム遺産化 推進 ヒロシマの使命 強く意識


■記者 東海右佐衛門直柄

 「あの被爆体験がなかったら、画家としての今日はなかった」。2日に死去した平山郁夫さん(79)は創作活動の先に、もう一つの使命を見いだしていた。「歴史の客観的な資料を後世に残す必要がある」。原爆ドーム(広島市中区)の世界遺産登録に向け、活動の先頭に立った。

 1945年8月6日、旧制修道中3年だった平山さんは、学徒動員先の広島陸軍兵器補給廠(しょう)の材木置き場(現在の南区仁保地区)にいた。小屋にいたおかげで「生かされた」。薄暗かった板張りの小屋の中も閃光(せんこう)に包まれた。

 「あの日」からほぼ半世紀がたった94年、東京芸術大の学長だった平山さんは、市が発足させた原爆ドーム世界遺産化推進委員会の副会長に就く。被爆地で「平和と戦争を考えるうえで原爆ドームは非常に大事だ」と訴えた。

 白血球数が異常に減少する被爆の後障害に苦しんだ平山さんだが、「告発」ではなく、平和への祈りを作品に込めてきた。原爆ドームを守る活動もその延長線上にあった。

 委員会の会長を務めた当時の広島市長の平岡敬さん(81)は「物静かに、端正に芸術を通じて平和を訴えた人。古里・広島への熱い思いを持っておられた」と語り、精力的に関係団体に働き掛けていた姿を思い起こした。

 2年後の96年、原爆ドームの世界遺産登録が決定。その功績もあって平山さんに98年、広島市名誉市民の称号が贈られた。秋葉忠利市長は「活動には平和意識が常に根底に流れていた」と死を悼んだ。

企画展相談したばかり/偉大な先輩 古里や母校 悲しみの声

 平山郁夫さんが死去した2日、出身地の尾道市瀬戸田町や母校の修道中・高(広島市中区)の関係者にも悲しみの声が広がった。

 幼少期の小品や大型作を所蔵する平山郁夫美術館(尾道市瀬戸田町)の亀田良一理事長(82)は「尾道大橋をスケッチしておられる姿をそばで見ていた。普段は優しくて静かだが、絵に向かう姿は厳しかった。来春の企画展の相談をしたばかりだったのに」と唇をかんだ。平谷祐宏市長(56)も「子どもに『心の眼(め)』で描くことを教えていた先生の姿が目に浮かびます。心からご冥福をお祈りいたします」との談話を発表した。

 修道高の正面玄関には、平山さんが校歌をモチーフに制作した陶版の壁画(縦3メートル、横4.5メートル)が飾られている。田原俊典校長は「誰もが知る偉大な先輩を亡くした。残念です」とうつむいた。

 戦時中の旧制修道中時代の同級生で、動員先の広島陸軍兵器補給廠で一緒に被爆した不動産業石本芳郎さん(79)=中区=は「平山君は絵が好きで、授業中にもこっそり描いていた。笑顔を絶やさず、ユーモアがあった」としのんでいた。

「人類全体の友人」アジアで弔意相次ぐ

 世界各地の文化財保護に尽力した平山郁夫さんの死去を受け、交流があったアジアの関係者から惜しむ声が相次いだ。

 平山さんは、1990年代のアフガニスタン内戦でカブール国立博物館が破壊された際に外国に流出した収蔵品を集め、戻す活動を行ってきた。同博物館のマスディ館長は「残念でならないが、功績と思い出はいつまでも残る」と弔意を表した。

 カンボジアでは、アンコール遺跡群の保護に尽力。首相府のパイ・シパン報道官は「カンボジアだけでなく、人類全体の友人だった。文化、芸術分野における功績は称賛に値する」とたたえた。

 韓国の韓日文化交流会議の金容雲(キムヨンウン)前委員長も「(北朝鮮の)高句麗古墳の世界遺産登録を働き掛け、文化の面から風穴をあけた」と功績を評価した。

 中国の国営通信、新華社も「文化遺産を積極的に保護し、日中関係の発展に貢献した」などと伝えた。(共同通信)

本社が号外

 中国新聞社は2日、日本画家の平山郁夫さんの訃報(ふほう)を伝える号外2万3200部を発行した。広島、福山、尾道など広島県内6市のJR主要駅や繁華街計11カ所で配った。

 広島市中区の紙屋町交差点周辺では午後3時半から、3600部を配布した。買い物客たちは受け取った号外を熱心に読み、衝撃でその場にしゃがみ込む女性の姿もあった。

 西区の田中安夫さん(81)は「県民の誇りだった。日本画の発展のため、もっと長生きしてほしかった」と惜しんでいた。

広島県庁に慰霊台 きょうから

 広島県は、平山郁夫さんへの弔意を表す慰霊台を、3日午前10時から9日午後5時半まで、広島市中区の県庁本館1階ロビーに設ける。名誉県民としてロビーに掲げてある平山さんの肖像写真の前に台を設置。花を飾り、慰霊文を添える。一般からの花などは受け付けない。

(2009年12月3日朝刊掲載)

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