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連載・特集

ヒロシマの記録―遺影は語る 材木町II

憩いの境内も祈りの公園に


※2000年4月29日付特集などから。

■記者 西本雅実、野島正徳、藤村潤平

 広島原爆投下から2年後の1947年8月、被災のつめ跡が消えない街中で住民による追悼供養がいち早く営まれた。材木町ゆかりの人たち約60人は、仏教でいう3回忌に、現在は平和記念公園になっている町内の淨圓寺につどった。この年の8月6日、広島市の平和式典の始まりである「平和祭」が、北隣の中島本町・慈仙寺鼻で行われている。

 淨圓寺の住職だった上園志水さん(84)は、自身が写る1枚の写真を手に取ると、こう振り返った。

 「あの時代にようこれだけ集まったと思いますよ。草木も生えぬと言われた広島で生きとる、あんたも生きとったんかと、むしろ喜びを確かめ合いました」。敗戦で高知県から復員すると両親は亡く、寺は壊滅していた。まだ電灯さえ復旧していなかった材木町で翌46年3月、がれきを整理しニ間からなるバラックを建てた。「旧住民で戻って来たのは5世帯ほど」。町内の六カ寺をみても4人の住職が爆死していた。

 追悼供養の写真を持っていた住本勝さん(74)も召集となり、被爆を免れたとはいえ帰郷すると7人家族が弟との2人だけになっていた。「生き抜くことで精いっぱいでした」。

 父や母、夫、妻、きょうだい…。写真に納まる参列者たちを捜し訪ねると、だれもが最愛の、頼れる肉親を失っていた。また、被爆の後遺症におののきながら、生活の再建に自力で取り組まなければならなかった。とりわけ原爆投下時に子どもだった人たちは、独り戦後の荒波にほうり出された。

 「気の持ちようだ。しっかりやれ。前を見て進め。人に負けるな」。材木町で家族4人を失い、中学を辞めて住み込み働きを始めた兄が、戦災児を預かる施設にいた弟にあてたはがきの一節である。弟はやがて単身ブラジルに渡り、死ぬまで日本の土を踏むことはなかった。兄もまた19年前に広島を出たまま音信を絶つ。「原爆さえなければ…」。叔母は、よく訪ねた姉と、その子どもである兄弟の生家跡にできた平和記念公園を通るたび、あらがう思いがぬぐえないという。

 材木町を含む爆心地一帯の12・2ヘクタールは、被爆4年後にできた「広島平和記念都市建設法」に基づき公園建設が始まる。原爆慰霊碑が52年に建立されると、町は平和式典の会場ともなり、さらに原爆資料館の開館(55年)、市公会堂を経て広島国際会議場(89年)、原爆資料館東館(94年)と整備されて行った。

 生き残った人たちが公園芝生広場の東側に「材木町跡」とだけ刻んだ石碑。気づく人さえ少ない碑の北側では今、2002年に開館する「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(仮称)」の建設が進む。   

(注)「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」は、2002年8月に開館した。

材木町IIの死没者名簿1

材木町IIの死没者名簿2

材木町IIの死没者名簿3

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