中国新聞の原爆・平和報道の進化と深化
08年1月3日
中国新聞社が力を注いできた原爆・平和報道は、時代の移り変わりとともに進化と深化を遂げてきた。主な連載記事を中心に大きな流れをたどると―。
原爆投下から1カ月余りすぎた1945年9月に連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコードを発令。以後52年に日本が独立するまでの7年間、原爆の悲惨さや被爆者の苦境などを紙面に出すことが規制された。掲載されたとしても、広島市が主催した平和祭など、焼け野原からの復興ぶりを強調する記事が多かった。被爆者援護と同様、報道に関しても「空白状態」に近い期間があった。
そうした状況が一変したのは、54年の米国による中部太平洋のビキニ環礁での水爆実験により、約160キロ東の海域で操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴びたことだった。この事件をきっかけに原水爆禁止運動が全国的に盛り上がり、広島、長崎の被爆者の存在があらためて関心を集めた。被爆者たちは56年に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を結成し、被爆者援護活動だけでなく、核兵器廃絶運動の先頭に立つことになった。
そうした社会状況の変化を受けて、個々の被爆体験や、その後の人生に焦点を当てた記事が増えていった。62-65年に掲載された、いくつかの連載(未来社から出版された)で頂点に達した。被爆時の様子だけではなく、その後の結婚・就職面で受けた差別や苦労、放射線の後障害が原因と思われる体調不良や突然の死をはじめ、生々しい声がつづられている。被爆者が自ら筆をとった「被爆体験記」とは違い、第三者の手によるからか、客観描写が多い。
原爆投下から20年近い歳月を経た後での取材・執筆であり、他の兵器にはない原爆特有の放射線の影響(佐々木禎子さんのように被爆後10年、あるいはそれ以上過ぎて健康そうに見えていた人の体調が突然悪化して死に至るなど)が、どれほど被爆者を苦しめていたかが伝わってくる。
それらは、被爆者の置かれた苦しい実態を浮かび上がらせる記事の原型といえる。若い世代や、海外の人々ら被爆の実情を詳しく知らない人にとっては、今なお変わらぬ強い訴求力がある。ノーベル文学賞作家(94年に受賞)大江健三郎のノンフィクション「ヒロシマ・ノート」(岩波新書)でも、中国新聞の企画記事が取り上げられている。それほどインパクトがある証しだろう。
新たな試みは、被爆から40年の八五年ごろ顕著になってきた。それまでの「個人」ではなく、地域や組織という「マス」に視点を拡大することで、被爆の全体像に迫ろうとする報道だ。疫学的・マクロ的な手法の導入である。背景には、原爆がもたらした影響を一層明らかにすることで、被爆者援護策の強化を国に求めようとする動きもあった。
85年に連載された企画「段原の700人」が、その代表であろう。広島市中心部の東にある小高い比治山の影で原爆投下による火災や建物倒壊を免れた段原地区に被爆10年後に住んでいた被爆者700人のその後を追跡することで、地域全体の被爆者の様子を浮き彫りにした。およそ3分の1が死亡。地域外に出て被爆者への視線が厳しい場所に隠れるように住んでいる姿など、描かれているのは個々の苦境だが、ある地域に住んでいた被爆者集団の様子が浮かび上がっている。
ほぼ同時期の連載「もう一つのヒロシマ」では、当時の社員のおよそ3分の1にあたる113人が原爆の犠牲になった中国新聞社という組織自体の被爆・復興体験をつづっている。地域ではなく、組織を通しての被爆の全体像を探る試みであった。
さらなる進化は、ヒロシマの視野を国際的に大きく広げることだった。89年から連載された「世界のヒバクシャ」である。史上最悪となった旧ソ連のチェルノブイリ原発事故や、旧ソ連最大のセミパラチンスク核実験場(カザフスタン)、米核兵器工場のヒバクシャらを取り上げ、核による被害者は、広島と長崎、ビキニだけではないことを明らかにした。15カ国21地域に及ぶこれほど徹底した取材は、おそらく世界のメディアで初めてだっただろう。
視野が広がっただけではない。核・放射線による被害者への医療・科学面でのノウハウが被爆地広島に蓄積されていることを「再認識」することにもつながった。その後、劣化ウラン弾による人体への影響や環境被害、国内では史上最悪の原子力事故となった東海村臨界事故についての報道にもつながっている。
1960年代には、日本復帰前の沖縄や、韓国の被爆者を現地ルポした報道などもあった。海外に目を向けた「被爆者」報道の先駆だった、といえる。
以上はあくまでも、被爆者にスポットを当てた連載を基に、大ざっぱに進化・深化の軌跡をたどったにすぎない。これ以外にもすぐれた企画や、カテゴリーがあることは言うまでもない。
たとえば、米地方紙記者招請計画(アキバ・プロジェクト)や国連軍縮総会、平和市長会議、国際司法裁判所(ICJ)、核拡散防止条約(NPT)再検討会議などヒロシマから「世界へ発信」する動きの取材や、被爆体験「継承」の取り組み、放射線の人体への影響に関する医療・科学面での追跡などもある。
中国新聞社の原爆・平和報道の歩み(抜粋)
8月6日 米国が広島に原爆投下。本社ビル焼失。新聞発行停止
8月9日 小倉市(現北九州市)の朝日新聞西部本社で代行印刷し、新聞発行再開。「新型爆弾」についての記述。
この日、米国は長崎にも原爆投下
9月11日~13日 「原子爆弾の解剖 都築博士を囲む座談」(3回)
原爆の威力、放射線の影響などを具体的に伝える初の報道
9月19日 連合国軍総司令部がプレスコードを指令
8月1日~7日 「新生一年 原子沙漠に灯は点る」(7回)
被爆から一年。マーケットの様子や青空教室など、「平和的文化都市」「ユートピア広島」として、
復興の進ちょく状況を振り返る
8月2日~10日 「ユートピア広島の建設」(9回)
峠三吉たち懸賞論文当選者3人の紙上発表。テーマは「ユートピア広島」はどう建設すべきか
<1947年>
8月5日~9日 「広島の再建を語る 座談会」(5回)
中央官僚、代議士たちと意見交換
<1949年>
7月31日~8月5日 「原子砂漠 新粧五年目」(6回)
繁華街や広島駅など市内のメーンスポットの写真を交え、復興を示す
<1950年>
7月23日~8月3日 「平和祭に寄す」(9回)
広島ゆかりの9人がヒロシマへの思いを綴ったコラム
<1951年>
5月15日~26日 「原爆十景 その後」(10回)
1947年に、観光客誘致の目的もあり、広島平和祭協会が選んだ「原爆十景」を写真とともにピックアップ
<1952年>
8月1日~5日 「原爆都ヒロシマ七年の歩み」(5回)
7年間の復興状況を振り返る
<1953年>
8月3、4日 「ヒロシマは繰返すか 原爆と平和の問題 本社主催座談会」(2回)
8月6日を前に、本社主催で座談会を開催。メンバーは、浜井信三広島市長他、大学教授や医師たち。
被爆の後遺症について言及。核兵器の非人道性についても議論
8月9日~14日 「原爆文献をめくる」(5回)
戦後、国内で出版された原爆と原子力問題についての論文や新聞などをピックアップ
<1954年>
3月1日 太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁での米水爆実験で第五福竜丸などが被曝
8月1日~6日 「原爆二都物語」(6回)
広島市と長崎市の復興の進ちょく状況の比較(インフラ、観光事業、孤児対策など)
<1955年>
7月15日~10月5日 「原爆十年 広島市政秘話」(74回)
浜井信三前市長が復興を回顧
7月30日~8月6日 「業火を越えて」(8回)
原爆乙女、原爆孤児ら、被爆者8人の生活を紹介。ケロイドを負った女性に対する差別や親との死別、
離婚などに苦しんだ末、子どもの成長など日々の喜びから前向きに生きる様子を描く
<1957年>
7月28日~8月5日 「ヒロシマ12年」(9回)
都市計画や原爆治療、経済力や原爆文献などの状況を報道。朝鮮戦争、第五福竜丸事件などを背景に、
原水禁運動が活発化。国外へ広島の実相を伝えることの大切さを訴える
<1958年>
7月27日~8月2日 「ひろしまを繰り返すな 世界の手紙から」(7回)
被爆後13年の核兵器問題、原水禁運動などの動向を伝える。東西陣営の対立が深まるなか、
広島の「ノーモアヒロシマズ」の訴えに対し、世界各国からさまざまな書簡が寄せられた
<1959年>
7月21日~7月28日 「ヒロシマの砂」(8回)
原爆症や原水禁運動の現状報告。冷戦期の最中、核拡散を憂慮。原爆、核弾頭ミサイル、水爆の危険性を説く。
また、第5回原水禁世界大会広島大会で、安保条約改定をめぐり紛糾
<1960年>
7月29日~8月3日 「折りヅルは見ている 原爆医療の実態」(6回)
原爆医療法の改正を受けた。被爆者が原爆症と貧困に苦しむ様子を取材し、
認定までに日数がかかるといった改正法の問題点を指摘
<1961年>
7月1日~8月1日 「星は静かに動いた」(4部32回)
「ヒロシマからの報告」「科学と社会」「ゴールはどこ?」「そこにある平和」で構成
7月13日~8月16日 「碑は見つめている」(30回)
平和記念公園内や学校、会社などにある43の慰霊碑について、建立に至る経緯や
碑に込められた意味などを取り上げる
<1962年>
7月15日~8月16日 「ヒロシマの証言」(33回)
街が徐々に復興するなか、原爆症に苦しむ被爆者の日常などを追う
<1963年>
6月25日~6月27日 「原水協の再建と平和運動」(3回)
原水協が全国常任理事会で統一再建を決め、活動を再開したのに合わせ、原水協の分裂、
統一の経緯を振り返り、平和運動の問題点を探った
<1964年>
7月10日~8月17日 「世界の中のヒロシマ 平和巡礼団に同行して」(39回)
広島・長崎の市民、医師たちでつくる平和巡礼団が米国ホノルルから核保有国を中心に地球を横断。
同行記者が報告
8月31日~9月11日 「沖縄の被爆者たち」(11回)
83人の被爆者が住む沖縄をルポ。本土に比べ、対策が遅れている実態などを浮き彫りに
<1965年>
7月8日~8月6日 「ヒロシマ二十年 世界にこの声を」(30回)
原爆小頭症の娘を持つ母親、原爆症に苦しみながら治療を続ける医師などを取材
7月8日~8月6日 「炎の系譜」(30回)
被災者が手を取り合い、たどった復興、救済、平和発信の道のりを追う
10月25日~11月24日 「原爆症二十年」(12回)
プレスコード時代にも地道に続けられた研究を振り返り、ケロイドや白内障、白血病などについて解説
11月25日~12月4日 「隣の国 韓国」(10回)
在韓被爆者の問題に言及
<1966年>
7月16日~7月26日 「核廃棄への道」(11回)
ベトナム戦争拡大を受け、核兵器廃絶への道筋を模索
<1967年>
7月21日~8月3日 「ヒロシマは発言する」(14回)
原水禁運動が混迷を続ける中、もう一度運動を国民の手に戻すにはどうすればいいのか。
作家 大江健三郎氏ほか、広島大、山口大の教授などとの共同討議を重ねた
<1968年>
8月4日~6日 「忘れられた被爆者 韓国からの訴え」(3回)
韓国人被爆者を釜山とソウルでルポ。日本政府への謝罪を求める気持ちや憎しみ、悲しみを伝えると同時に、
実態調査もされていない現状を浮き彫りに
9月17日~9月21日 「24年目の被爆者 特別措置法の周辺」(5回)
被爆者の9割以上が手当対象外という、施行されたばかりの特別措置法の矛盾点を指摘
<1969年>
7月24日~8月12日 「原爆教育」(10回)
原爆・平和教育の議論の盛り上がりを受け、学校教育に焦点を当てる。カリキュラムに取り入れるなど、
教育での体験継承を提言
<1970年>
7月11日~7月25日 「核時代を生きる」(12回)
被爆者認定訴訟に立ち上がった人や、継承に力を入れる人など、前向きに生きる被爆者を取材
<1971年>
7月7日~8月3日 「人類が生き残るために」(3部25回)
原爆の開発、製造、投下に至る系譜をたどり、国家や政府の責任を問う
10月2日~11日 「『原爆の子』20年」(10回)
原爆で家族を失いながら、廃虚の中から立ち上がった広島の子どもたちの手記集「原爆の子」 (長田新編、岩波書店)。出版から20年目を迎えたのに合わせ、手記を寄せた子どもたちの20年間をたどる
<1972年>
5月15日 沖縄、日本に復帰
6月3日~12日 「沖縄県の被爆者」(10回)
沖縄の本土復帰に合わせ、沖縄の被爆者たちを取材し、悩みを探る。
専門医がいない、渡航の制限があるなどの訴えが寄せられた
7月10日~8月4日 「被爆二世問題を考える」(3部21回)
<1973年>
6月15日~24日 「よみがえる『あの日』」(10回)
敗戦直後、米軍に持ち去られた原爆被災資料写真が28年ぶりに返却され、ゆかりの人達に取材。証言を集めた
7月15日~8月3日 「被爆者援護法を求めて」(3部18回)
原爆医療法、被爆者特別措置法の矛盾を明らかにしながら、援護法への道を探った
<1974年>
1月7日~12日 「韓国の『ヒロシマ村』寒村に生きる被爆者」(6回)
在韓被爆者約2万人中約3千人が住む寒村を取材
7月11日~8月13日 「原爆病院」(30回)
原爆病院で、医師、入院患者などを取材した、被爆者医療の現場ルポ
<1975年>
2月3日~7月23日 「昭和20年 ヒロシマ記者の日記から」(134回)
中国新聞記者として行政や軍の担当をしていた大佐古一郎氏の日記や取材メモで振り返る
5月9日~6月1日 「原爆医師30年 重藤文夫氏に聞く」(23回)
7月22日~31日 「原爆人生」(10回)
被爆30年を機に、被爆者の「痛み」を取り上げた
<1976年>
7月2日~8月3日 「放射線影響研究所」(30回)
<1977年>
6月26日~8月3日 「被爆者の32年」(2部30回)
苦難の道を歩む被爆者の証言。健康面だけでなく、差別や偏見は、被爆32年経ってもなくなっていない
<1978年>
6月17日~8月3日 「ヒロシマを世界へ」(2部27回)
1部では、米国の核実験の犠牲になった兵士たちの病苦や生活苦をルポ。
2部では、平和教育の現状や、地域の平和運動の実態などを追った
7月21日~31日 「被爆者は訴える これからの援護」(10回)
原爆二法の問題点を挙げ、物理的、社会的、政治的な被害を受けた被爆者に、
「過去の補償」「現在の保証」「未来の保障」を盛り込んだ被爆者援護法の必要性を訴えた
<1979年>
3月13日~21日 「ネバダ核実験 うずく傷跡」(6回)
7月1日~8月1日 「ヒロシマの証 原爆資料館から」(28回)
<1980年>
6月9日~7月30日 「被爆者35年」(2部26回)
被爆者援護法実現に向けた被爆者たちの活動を報告
<1981年>
7月14日~30日 「問われるヒロシマ」(2部14回)
5月の米元駐日大使ライシャワーの「核持ち込み発言」を受け、改めて市民の意識などを問う
<1982年>
6月28日~7月4日 「検証 草の根運動 国連NGO代表団の足跡」(7回)
6月の第2回国連軍縮特別総会では、世界各国から反核、軍縮を訴える市民が集まり、
反核運動は大きなうねりをみせた。各国の「草の根」運動とその交流をルポ
<1983年>
1月6日~19日 「ヒロシマを伝える アキバプロジェクトの記者たち」(12回)
1979年から始まった広島国際文化財団のアキバプロジェクトで広島、長崎を訪れた
米国人ジャーナリスト12人の帰国後を追った
<1984年>
1月1日~7月29日 「森滝日記」(7部200回)
核廃絶運動の先頭に立った森滝市郎氏の日記やメモなどをもとに、平和運動の軌跡をたどる
7月1日~85年3月23日 「もう一つのヒロシマ」(259回)
爆心地から東方900メートルの上流川町(現中区胡町)にあった中国新聞社は、大半の社員を失い、
機械設備が壊滅した。社員たちはどう復興してきたのか。中国新聞社の「被爆体験」を語る
<1985年>
1月1日~7月10日 「段原の七〇〇人」(6部87回)
比治山に遮られ、焼失を免れた広島市南区段原地区。中山広実医師が地区内の被爆者700人に配った
私製の原爆手帳を追跡し、「ヒロシマ40年」を問い直す
6月5日~26日 「彼方のヒロシマ アキバ・プロジェクトの記者たち」(20回)
「アキバ記者」19人の帰国後を追った。リポート発表や、学校、教会でのスライド上映、「語り部」などさまざま
<1986年>
7月18日~8月4日 「36万人の被爆者 被団協運動30年」(2部16回)
日本被団協が結成して30年。平和行進や座り込みなどの活動を続ける被団協のメンバーたちを取材
<1987年>
7月8日~8月2日 「広島市原対部」(2部18回)
広島市衛生局原爆被害対策部の担当者を取材し、被爆者行政の今後を探った
7月7日~8月21日 「ヒロシマ 表現の軌跡」(2部28回)
ヒロシマを表現し続けた詩人栗原貞子と、画家丸木位里・俊夫妻の作品や活動実績を紹介
<1988年>
7月13日~8月1日 「ヒロシマ精神養子」(2部17回)
原爆で肉親を失ったヒロシマの子と米国の市民が養子縁組を結んで交流した「精神養子運動」のその後
<1989年>
5月21日~90年5月29日 「世界のヒバクシャ」(20部134回)
ソ連のチェルノブイリ原発事故のその後、米核兵器工場、仏領ポリネシアの核実験場など15カ国21地域をルポ
<1990年>
7月22日~8月3日 「‘90年 素顔の平和都市ヒロシマ」(11回)
東西冷戦構造の大変革を前に、体験の風化と平和行政の形がい化が同時進行するなか、
平和行政のあり方を追う
<1991年>
7月24日~8月4日 「原爆小頭児 45歳の夏」(10回)
原爆小頭児と家族の45年を追跡
8月6日~13日 「核実験に汚染される地球 IPPNW報告書から」(8回)
70カ国の医師らによる核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が、世界各地の核実験による健康、
環境への影響を調査した報告書「大気と大地の放射能」について
<1992年>
8月3日~13日 「問い直すヒロシマ」(2部9回)
冷戦が終わり、国際社会が過渡期を迎えるなか、「国際社会と憲法」「アジアと人権の視点」をテーマに
ヒロシマの道を探った
<1993年>
7月28日~8月6日 「体験なきヒロシマ 表現へのアプローチ」(8回)
戦後世代や外国人による文学、美術、音楽などを通した「ヒロシマの表現」を紹介
<1994年>
2月21日~25日 「ビキニ被災40年」(5回)
第五福竜丸の元乗組員のその後。年老いた被災者は再び重い口を開き始め、ヒロシマ・ナガサキや
被災島民との連携を図る動きを追う
4月20日~95年9月5日 「ヒロシマの形見 伝えよう被爆資料」(66回)
読者から寄せられた情報をもとに、さまざまな資料や遺品を紙面で紹介し、リストを作成。
「爆風の痕跡を刻む自宅」や「焼け焦げた定期入れ」など
11月7日~95年4月20日 「核時代 昨日・今日・明日」(149回)
核時代半世紀の意味を、核超大国アメリカの著名な科学者、歴史家、政治家らのインタビューを通して検証
<1995年>
1月22日~8月13日 「検証ヒロシマ1945~95」(30回)
被爆者医療と援護、反核・平和運動、核と政策などをテーマにヒロシマの50年の歴史を洗い直した
3月15日~7月2日 「核と人間」(82回)
米国の放射線人体実験の真相、軍事研究の影が漂うABCC誕生の軌跡、
国家機密のもとで隠され続けた旧ソ連の核開発など、実態に迫る
6月26日~8月1日 「被爆者‘95 半世紀を生きて」(3部16回)
基町地区(広島市中区)の高層アパート群に住む被爆者などを取材し、高齢化問題や被爆者の願いを探る
<1996年>
1月1日~8月1日 「50年プラス1」(4部30回)
被爆地や沖縄のほか、全国各地の平和への取り組みを紹介
<1997年>
3月21日~7月8日 「印パ独立50年 核神話の下で」(8部77回)
核保有国であるインドとパキスタンにとって、核戦争の「引き金」になりかねない
カシミール紛争の背景を追うため、インド側国境などを歩き、軍縮への可能性を探る
7月25日~8月4日 「ドームの街 猿楽町」(10回)
原爆ドームだけを残して消えた街、「広島市猿楽町」。遺族から提供を受けた102人の遺影
(うち1人は肖像画)を通し、街の記憶を掘り起こした
<1998年>
6月9日~7月30日 「人類は生きねばならぬ」(3部26回)
インドとパキスタンの核実験を受け、現地の状況や日本の被爆者らの行動を報告
10月15日~2000年6月28日 「ヒロシマの記録―遺影は語る」
爆心地一帯での被爆死状況を追った。2000人あまりの死没状況を明らかにし、
9シリーズにわたって1700人を超える遺影を掲載した
<1999年>
7月5日~11日 「伝言板再び」(6回)
袋町小(広島市中区)の校舎に残った「伝言板」に記された人たちやその周辺を追った
7月18日~23日 「学び伝えて」(6回)
平和への取り組みを次世代がどう担うのか、ヒロシマを伝える試みを紹介
<2000年>
1月3日~7月7日 「被曝と人間」(6部39回)
1999年の茨城県東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)で起きた臨界事故を受け、
被曝者治療にあたった医師や広島大原爆放射能医学研究所(原医研)を取材。
安全神話が崩壊した原子力政策への警鐘を鳴らした
4月4日~7月13日 「知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態」(6部46回)
1991年の湾岸戦争などで使われた放射能兵器「劣化ウラン弾」。
米英など5カ国をまわり、退役米・英軍人やその家族、戦場となったイラクの軍人、市民らを取材。
放射線被曝による健康被害の実態を掘り起こした
<2001年>
7月16日~8月12日 「2001 被爆者の伝言」(23回)
核の世紀20世紀を生き抜いてきた被爆者たちは、高齢化や病が進み、尽きぬ思いを抱えたまま
次々に亡くなっている。あらためて被爆者10人に次世代に託す思いを聞いた
<2002年>
7月2日~8月15日 「在外被爆者 願いは海を超えて」(4部34回)
南米、米国、朝鮮半島に住む在外被爆者を取材。国境の壁に阻まれる支援の実態を追う
<2003年>
6月6日~11日 「原爆症認定 広島で集団提訴へ」(5回)
広島の被爆者27人が、原爆症認定を国に求めて集団提訴するのを前に、老いた被爆者たちの願いを聞いた
7月11日~8月2日 「ヒロシマ胎動」(3部19回)
イラク戦争を契機に、ヒロシマの使命を現地ルポや広島の若者の行動などを通じて考えた
<2004年>
2月12日~28日 「ビキニ被災50年」(2部13回)
マーシャル諸島の現地ルポとともに第五福竜丸の元乗組員たちを取材した
5月10日~05年7月4日 「広島世界平和ミッション」(6部112回)
広島国際文化財団主催の被爆60周年プロジェクト。1月1日に立ち上げ、被爆者や若者で構成する派遣団が
米ロなど核保有国や対立地域を中心に13カ国を訪問。「平和と和解のメッセージ」を伝えた
7月16日~8月2日 「歳月を超え 被爆59年の夏」(2部15回)
原爆死没者の遺骨が相次ぎ見つかった似島(広島市南区)で、発掘作業などを取材。
また、世代を超えて被爆の記憶を受け継ぐ新しい取り組みを伝えた
11月28日~05年6月19日 「ヒロシマを聞く 未来への伝言」(30回)
総勢101人の被爆者や若者たちに対談してもらい、記憶継承のかたちを模索した
<2005年>
6月7日~10日 「核廃絶への道 NPT会議の教訓」(3回)
NPT再検討会議は、核軍縮が停滞し核拡散の懸念が増す国際情勢に、何ら成果をもたらさないまま閉幕した。
会議が合意形成を失敗した要因を振り返り、課題を探った
7月10日~31日 「ヒロシマ60年 記憶を刻む」(3部17回)
原爆小頭症患者やその家族、被爆ろう者たちを取材。取材には、手話通訳者を介した
<2006年>
4月2日~5月10日 「原発事故20年 チェルノブイリに暮らす」(28回)
旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故から20年。広島型原爆の三百倍の放射性物質が
流出したとされる史上最悪の原子力事故は、周辺国の地域社会に深刻な被害をもたらした。
被災国ベラルーシに記者がホームステイするなどし、取材
7月3日~8月1日 「被爆者運動50年」(2部13回)
10月12~17日 「北朝鮮核実験 ヒロシマは問う」(6回)
北朝鮮の核実験実施宣言を受け、被爆者代表や識者ら6人に核実験の影響やヒロシマの役割を聞いた
11月19日~07年7月8日 「ヒロシマ記者 超大国を歩く」(33回)
米国の15州46都市を訪れ、250人以上を取材。
2001年の米中枢同時多発テロで救出活動に携わり、健康被害や家庭崩壊に苦しむ人、
不当な逮捕や裁判にかけられたアラブ系市民やイスラム教徒、イラク帰還兵らを通し、
ブッシュ政権の政策がもたらした矛盾に迫った
<2007年>
1月29日 「ひろしま国」 スタート
こども記者が、仮想の「ひろしま国」を舞台に平和な世界を考える
2月26日~10月19日 「放影研60年」(5部29回)
設立60年目を迎える放射線影響研究所の今を取材した